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what's new 2019‐2013
「鈴木貞美 hp」 または 「sadamisuzukihp.jp」 で検索してください。
◎2019/06/28に京都の住居を引き払いました。
連絡はメール、または郵便で東京・練馬区光が丘の自宅へお願いします。
●『歴史と生命―西田幾多郎の苦闘』は2020年2月に作品社から刊行予定です。
●『座談会 日本文学史を編み直す』(全6巻、水声社)、第1巻・総論篇(古橋信孝/錦仁/兵藤裕己と)、
第2巻・古代篇(古橋信孝/藤井貞和/三浦佑之と)の編集が進行中です。
●『満洲事典』(筑摩学芸文庫)、原稿整理が進行中です。
2019/10/8〜11/7 パリ高等研究院にレクチュアに行きます。
gmailのアドレスで連絡がつきます。
2019/09/24
吉林大学外国語学院での集中講義の合間に、『風土記』を読み直していたら、
『常陸国風土記』の前文にあたるところに「自然」(自ずからしかり)の語が出ていました。
『日本人の自然観』(P.84, l.4末尾)に補っておきます。
2019/09/07
〇明日、2019/09/08〜10/1まで、中国・長春、
この期間、わたしはgmailを使用できません。メールは、Yahoo.jp のアドレスにどうぞ。
2019/08/15
〇『鴨長明―自由のこころ』に訂正追加が出ました。
総研大文化科学研究科の卒業生、岡本久美子さんより、
秋道智彌「下鴨神社の森と湧水」(生き物文化誌学会『BIOSTORY』31号、誠文堂新光社、2019)
のpdfを送ってもらい、 改めて、中島暢太郎『気象と災害』(新潮選書、1987)中「京都鴨川水害史」を参照しました。
2019/08/06
〇今秋、講演と集中講義に、9月、中国・吉林大学、10月、パリ・高等研究所(EHESS)に赴きます。
2019/07/29
〇『座談会 日本文学史を編み直す』(全6巻、水声社)、第2巻古代篇(古橋信孝・藤井貞和・三浦佑之と)の収録を終えました。
2019/06/24
〇倉本一宏・小峯和明・古橋信孝編『古代中世説話の形成と周縁(中近世編)』臨川書店が刊行されました。
鈴木貞美「『説話』という概念―文化史の再建から文芸史研究へ」では、「説話」なるものの研究方法の提案をしています。
なお、検討すべき今日の「説話」概念の指標として、
国東(くにさき)文麿「物語・説話と説話文学」(『新編 日本古典文学全集35 今昔物語集(一)』小学館、1999)
を挙げましたが、これは『ジャパン・ナレッジ』に掲載されていることを付け加えておきます。
また、『今昔物語集』全体の編集が、天台によるものとされてきた理由、鎌倉時代以前の法相宗僧侶ではありえないことは、
『座談会 日本文学史を編み直す』総論篇で、語ります。
2019/06/01
〇『西田幾多郎―日本哲学の蹉跌』(650枚/400字)は、今秋、単行本で刊行予定です。
2019/02/25
〇講演録「『万葉集』の自然観」(奈良県立大学ユーラシア研究センター『調査レポート』3月予定)の校正が終わりました。
ぐっと圧縮していますが、日本の「民謡」概念、「自然」概念についての勘所も語っています。
2019/01/18
〇『日本人の自然観』、佐々木力氏、村上陽一郎氏が2018年の収穫にあげてくれました。
とにもかくにも感謝!!!
〇2019年今年の執筆予定(『出版ニュース』一月中下旬号) 〔影の声〕つき
二〇一八年には『日本人の自然観』(作品社)を、かろうじてでも、まとめることができた。
文・理に橋を架けるのだから、それぞれの水準を調節するのに骨が折れた。
〔新たな提案に力を注ぎ、すでに論じたことは、参照を期待して、はしょって書いてあります。
とくに文芸文化史に関心のある方は「方法」を読んでくださいますよう〕
わが身の骨はともかく、橋脚・橋桁・ジョイント部に瑕疵が生じていないか、
土台から点検と補修こそがライフ・ワークになる。
〔今後、機会に応じて、詰めるべきところを詰め、展開すべきところを展開してゆきます〕
その一環として、西田幾多郎について一書を執筆中。
〔生命原理主義の変貌、西洋哲学の再編から「東洋回帰」へ、実在論から形而上学へ、
思潮史や時局への対応など、詰めています。いま、半ば〕
もう一つ、コールサック社の高橋和巳論集にエッセイを寄せた。
ほんの数日前、『堕落』掲載の『文芸』一九六五年六月号が押し入れの奥から出てきた。
「満洲国」問題は、そのころから抱え込んでいた課題だったと判明。これも今年あたり、一段落つけるつもり。
〔『悲の器』『堕落』「六朝美文論」について書きました。今、読むべきところと読み方を書いたつもりです。
『堕落』を読んだのが、いつかわからない、と書いたことの答えが押し入れの奥から出てきたという意味です。
1971年7月『文芸』臨時増刊 高橋和巳追悼特集も出てきました。何が失われてしまったのか。考えさせられます。
『満洲事典』にもケリをつけます。〕
ジャンル概念をめぐっては「説話」について、神話群や各説話集の「編集の思想」を組み合わせ、
臨川書店より六月刊行の論集で提起する。
〔「説話」概念は明治後期の神話学で成立したものです。日本古代に「英雄」は書かれていない。
『今昔物語集』も、その「編集の思想」から問いなおしました。〕
わがストラテジーは「日本文化史の再建から文芸史研究へ」に定まり、
日本文芸史再編の座談会シリーズ全六冊を古橋信孝氏と各位の協力を得て、水声社から刊行開始する。
〔私が基調報告をつとめた『総論篇』を編集中〕
2019/01/04
・『座談会・日本文芸史』総論篇(水声社/全六冊)が進行中です。
・最近の著作(recent articles)に追加。
『日本人の自然観』誤記・誤植訂正に追加。
無我夢中が過ぎます。我ながら呆れかえるほど。猛省。
2018/11/19
「『説話』という概念―文化史の再建から文芸史研究へ」を脱稿。
日本近現代における「説話」概念の形成・展開過程を明らかにし、
日本の古代神話に『英雄』は登場しない、
『今昔物語集』は中国の『法苑林珠』を手本にした天台の仏教説話集、
という二点を中心に、古代神話と中世説話集の双方にわたって
「編集の思想」を問い直す必要があることを提言します。
『古代中世説話の形成と周縁』臨川書店(2019)に掲載予定。
2018/11/1
武漢大学での講演及び国際シンポジウムより戻りました。
いろいろと収穫が多く、今後の展開が楽しみです。
2018/10/27
『日本人の自然観』作品社/2018,10/786頁・含索引)が刊行されました。
文理複合の方法により、日本人の自然観を根本から問い直す書です。
古代から現代まで、国際的視点から、日本の科学=技術と文芸・思想文化の歩みをあわせて再編。
掛け値なしの労作です。
2018/10/16
高橋和巳論集刊行委員会編『高橋和巳の文学と思想―その〈志〉と〈憂愁〉の彼方に』コールサック社が刊行されます。
記者発表会にメッセージを送りました。
鈴木の論考「高橋和巳に誘われー『悲の器』『堕落』「六朝美文論」とその周辺」に誤植が遺ってしまいました。
お詫びして訂正します。Errata欄に記載。
2018/10/10
『日本人の自然観』(作品社)が校了になりました。
(2018/09/29)
佐岐えりぬさんを偲ぶ会(アルカディア市谷)で司会をつとめました。
(2018/09/24)
紫式部文学賞・記者発表 水原紫苑{『えぴすとれー』について講評。
(2018/09/22)
吉林大学での国際シンポ、集中講義から戻りました。
(2018/08/16)
中国日本文学研究会年次大会(内蒙古大学)より帰国しました。
(2018/08/06)
本欄6月の記事をわずかに修正しました。
(2018/06/20)
「高橋和巳に誘(いざな)われ―『悲の器』『堕落』「六朝美文論」とその周辺」(85枚/400字)を脱稿。
太田代志朗・田中寛共編『高橋和巳を読み解く』(コールサック社)へ寄稿。
(2018/06/14)
●『日本人の自然観』(本文1500枚超/400字)、作品社より10月刊行が決まりました。
地球環境危機に直面し、「自然の恒久性」の破壊が進行している現実と、IT、AIの急速な発展のあいだで、
われわれは宙づりにされ、「日本人の自然観」は俗説と短絡に満ちた漂流をつづけている。
前近代の日本人は本当に「自然」を対象化できなかったのか?
“nature”の翻訳語は、まずは「性(質)」と「天地」だった。これはいまでも変わらない。
日本で20世紀への転換期に「自然」が加えられたのである。
明治期の翻訳語「自然」の成立と定着についての見解を根本から検討しなおし、
「自然」観にアプローチする「文=理」統合の複雑系思考の方法を提示する。
中国と西洋近現代の「科学=技術」史および自然観の関係とその変転を洗いなおし、
日本の上代から今日までの「天地自然」観、思想と技芸の関係、その変遷を通覧する。
日本文化史の再建と文芸史の再生を訴える。
(2018/06/01)
●『日本人の自然観』(1500枚強)を脱稿しました。
日本列島は、前近代から天然物の開発に勤しみ、18世紀から公害が多発、足尾鉱毒事件、水俣病はもとより、
福島第一原子力発電所の事故まで、地震や火山の爆発、洪水などの天災を人災が増幅する歴史を繰り返してきた。
西洋とも中国とも異なり、日本人は伝統的に「自然を愛する国民」論は、
文部省が児童に「天然物を愛する心を養う」を理科教育のモットーにしていたとき、
自然志向、博物学の高まり、「山林保護の伝統」論などを背景に、芳賀矢一『国民性十論』を先蹤とし、
藤岡作太郎が『国文学史講話』で唱え、和辻哲郎『日本古代文化』、土居光知『文学序説』へと引き継がれたもの。
日本科学史は、伝統的な「天人合一論」や「情緒的自然観」が科学=技術の発展を阻害したと唱えてきたが、
1970年代に地球環境危機に直面し、東西の「自然」観の相対比較に転じ、日本文化論はむしろ「自然と一体」の観念を強めた。
漢文リテラシーを考慮しない大野晋『日本語の年輪』、
”nature”の多義性を無視し、翻訳の実際に踏み込まない柳父章『翻訳の思想―自然とNATURE』など、
日本の「自然」概念と自然観をめぐる俗説の数かずを糺し、その根本からの転換を促す。
「天地」・「おのずからしかり」・「本性」はみな、”Nature”に対応する概念である。
それゆえ、東西の「自然」観の古代からの比較が可能になる。
「機械論」・「エネルギー」・「有機体」・「実学」など概念の成立と展開を追い、
「科学革命」論からパラダイム・シフト論への展開、ジョセフ・ニーダムの中国科学史の背景、ホワイトヘッドの「永遠の客体」などなど
「宗教」・「科学=技術」・「芸術」・「国家=社会」の相互関係を、自然科学と人文・社会科学の双眼鏡で見渡し、
日本人の自然環境とのつきあい方を国際的な視野から辿りなおす。
古代神話に現れる邪神のコトムケと土木工事、歌謡と『万葉集』の自然観を探り、
中国詩論に立脚した『古今和歌集』序文、「四季」の観念の確立の社会的背景を論じ、
仏教思想と中世歌謡の関連、『新古今和歌集』の評価史、江戸時代の儒学の日本的特殊性、「開物思想」の展開、
エネルギー一元論の受容と帝国大学の創設との関連、「叙景」の近代化から象徴主義文芸の展開を明らかにし、
「環境に適した科学」を訴えた寺田寅彦「日本人の自然観」、分子生物学から複雑系の科学まで今日の課題に挑む。
『生命観の探究』の成果を「自然観の探究」へ開く、創見に満ちた労作を自負する。
(2018/05/27)
〇「都市と多重言語、そのかかわりの歴史へー体験的国際比較論」を『日本語学』8月号に寄稿しました。
(2018/04/25)
〇「日記の彷徨」を『kotoba』夏号(06/06、集英社インターナショナル)に寄稿しました。
(2018/04/21)
〇これまでの著書の内、三上参次・高津鍬三郎合著『日本文学史』についての補注を次のように改めます。
*上巻(ないしは鎌倉時代まで)を担当した高津鍬三郎と、下巻(ないしは、上巻の鎌倉時代以
降)を担当した三上参次とのあいだで、その理念に揺れが見られる。〔総論〕には、国学者
流に和文主義は とらず、漢文を重んじて参照するとあるが、別項に漢文は本文に引用しな
いともいう。上巻で高津は作品としては、『古事記』『日本書紀』の歌謡からはじめている。
ただし、〔第二篇 奈良朝の文学〕の文体例に、『続日本紀』より宣命二篇を漢文、詔勅二篇
を訓述体、また『古事記』より神話三篇、『出雲国風土記』より国引き神話(原文は崩れた漢文)
を訓述体で載せている。それに対して、下巻では、歴史書を重視し、また新井白石の漢
文の著書を収載している。
「ただし」以下、赤字部分、原稿に脱落が生じていました。お詫びして訂正します。
この補注は、『日本文学の論じ方』『「日記」「随筆」―ジャンル概念の日本史』につけたはずです。
(2018/04/20)
〇講演要旨 「近代的『自然』概念とその定着をめぐって」
(5/19比較文学会東京支部例会,東工大大岡山西8号館 W833教室14:00〜)
?柳父章『翻訳の思想―自然とNATURE』(1977)の功罪を問い、近代的「自然」概念の定着
の問題が解決していなかったことをはじめ、多義的な鍵概念の翻訳問題にアプローチする
方法の基本を提示する。
ロブシャイド「英華辞典」の”Nature”を媒介として参照することの必要性と必然性。
?文部省用語が昭和戦前期まで「天然(物)」(「天然」は天地自然、天地のあるがまま)だったことなどを考慮し、
多義的な近代的「自然」概念の定着過程を、リセプターとしてはたらいた伝統的概念とともに再考する。
前近代まで「自然」は「自ずから然り」の意味。”Nature”(本性)との重なりに注意。
これは、「自然体」などに、いまでも活きている。
対象的「自然」の概念には、「天地」(あめつち)、「万物」、「森羅万象」などがあった。
相当する概念が「ヤマトコトバにない」として、前近代日本に対象的「自然」の概念がない
とするのは、「国学」の影を引きずった近代の言語ナショナリズムの陥穽。
ヤマトコトバも、古代から漢文が書けた人びとが「訓述」したことが忘れられている。
?20世紀前半の英語圏で有機体的宇宙進化論が流行したこと、また、地球環境問題に直面し、
1970年代から「日本科学史」が変貌してきたことなどと関連させ、近現代における「自然」
概念とは何か、改めて問題提起する。
?報告時間の余裕に応じて、「日本人は自然を愛する民族」説の由来について、比較文化史の
観点から、藤岡作太郎『国文学史講話』(1908)、和辻哲郎『日本古代文化』(1920, 25, 39)、
土居光知『文学序説』(1922, 27)とそれぞれの理論的・歴史的背景および影響について述べ
てみたい。
〇戦前・戦中期の出版検閲に関心をお持ちの方へ。
浅岡邦雄「出版検閲における便宜的法外処分」(中京大学図書館学紀要38号、2018年3月)
が、お勧めです。 「削除処分」と「分割還付」のちがいも、まとめてあります。
これが、とてもわかりにくいところでした。
中里介山『夢殿』連載第4回(『改造』昭和2年9月号)は、
発売頒布禁止 → 分割還付 → 切り取り作業 が通説のようになっていますが、
削除処分命令 → 切り取り作業 とすべきです。その理由も、丁寧に明らかにしてあります。
1919年11月の著作家協会と内務省の交渉についても記してあります。『読売新聞』(1919/11/26朝刊7面)記事
「削除処分」(切り取り)が著作家協会側の意向であったことも、これで了解できました。
これについて、わたしは、「分割還付が出版社側から持ち出された」と、
どこかで喋ったか、あるいは書いたか、した憶えがあります。
若いときに聞いた、ベテランの編集者からの伝聞によるものでした。
いま、どこに書いたか、見つかりませんが、ここに、訂正します。
(2018/04/18) recent lecture 更新。
(2018/04/06)
(2018/03/29)記事につき 鶴見俊輔『限界芸術論』についてのコメントを大幅に修正しました。
(2018/03/29)
(03/12)記事に質問が寄せられました。(04/03, 07追記)
明治期の「純文学」と「大衆文学」「大衆文化」との関係がよくわからない、
古代の歌謡は「大衆文学」のように土橋寛は書いている、ともありました。
後者は、少しちがいます。鶴見俊輔が考案した「限界芸術」の概念を転用したものです。
?まず、確認してゆきましょう。
明治期の「純文学」は、1920年代に形成される「大衆文学」の対義語ではありません。
「文学部」の「文学」に対する下位ジャンルです。
「哲学・史学・文学」の「文学」 を、大きな「文学」と区別するため、呼び分けたものです。
当時、「大衆文学」という概念は成立していなかった。
この「純文学」を「大衆文学」の対義語として読めば、歴史性を無視した誤読になります。
文字で書かれた言語芸術を意味する「純文学」の下位概念に「詩・小説・戯曲」があり、
「大衆文学」は小説に限って用いられましたから、そのまた下位概念です。
混同しようがないほど、概念レベルもちがう。それも無視している。
「大衆文学」は、1920年代に「文壇」の小説が、文学青年向けに陥ったと判断し、
勤労大衆向けの小説を創り出してゆくことを目指した一種の文芸運動として開始されたものです。
白井喬二が主導し、江戸川乱歩を誘って同人雑誌「大衆文芸」を創刊(1926)しましたから、
当初は、時代小説と探偵小説の二つのジャンルに限られていた。
菊池寛はれっきとした文壇人ですから、その『真珠夫人』(1920)など現代ものは「文壇小説」とされていた。
新聞小説は、概して、一般向けという意味で「通俗性」が高いが、文壇人が書けば「文壇小説」。
白井喬二の提案に、『サンデー毎日』が呼応して、懸賞募集するなどし、
平凡社が円本「日本大衆文学全集」を1927年に企画して宣伝したので、瞬く間に定着しました。
その意味で、日本に独特の歴史性をもった概念です。
英語に翻訳するなら”mass literature”とすべきです。”a kind of popular literature”とはいえますが。
欧米の市民社会の形成期に一般読者向けに発展した「ポピュラー・リテラチュア」(民衆文芸)とは、性格がちがう。
「ポビュラー・リテラチュア」を被支配層をいう「民衆」が享受するためにつくられた文芸という意味で定義すれば、
古くは「民謡」や「民話」など、共同体で自然発生するものがあげられます。これはoral performanceの一種です。
文字化して残されているものは知られていますが、消えてしまうものの方が多かったはず。
次に、「民衆文学」を「読み物」として制作されたものに限定するなら、国際的に一番早いものとしは、
中国の講談から発生した「白話小説」があげられるでしょう。
口承されていた「伝奇」や「志怪」を撰述したものとは、区別される。
『平家物語』は琵琶に載せて語る「語り物」として増殖していった。
『太平記』は、講談のように民衆の前で読まれる「読み物」として書かれたもの。
日本の中世の「お伽草紙」などは口頭伝承を撰述したものです。
それらとは区別される、書き手の個性(考えや表現の仕方)が強く出た井原西鶴の「好色もの」、
また近松門左衛門の浄瑠璃、芭蕉の歌仙(36句の俳諧連歌)などなど、
多彩な種類の民衆向けの読み物(一般概念としての)が、17世紀後期の元禄期に多彩に開花した。
そのころ、ヨーロッパで民衆向けの読み物は、教会の前で売っている民衆教化のためのパンフレットくらいしかなかった。
ヨーロッパで「民話」の採集が行われ、刊行されたのがよく知られる『グリム童話』(1812〜)。
ただし、近代的な改編が行われていることが指摘されています。
でも、『グリム童話』が本当にヒットしたのは、絵入のイギリス版(1825〜)。19世紀半ばにかけて拡がった。
『マザー・グース』が膨れあがって刊行されたのも同じ頃。民謡が注目されたのも同じころから。
なお、シャルル・ぺーロ―の童話集は17世紀末で、断然早い。が、もとは韻文で、宮廷サロン向け。
「コント」とついた教訓譚のかたちに仕立ててあります。これが、とこても「童話」の基本形。
(そののち、日本では、1920代に、教訓臭を脱する運動が起こり、「児童文学」などの名称も拡がります。)
先のヨーロッパの動きに上田敏が反応して「民謡」の語を用いたわけです。
森鴎外も用いたが、そのころ、上田敏は?外のもとに出入りしていたから発信源はひとつ。
「民謡」という新語を用いただけで、「俚謡」「俗謡」は江戸時代から広く流布していたことは、
前の議論で紹介しておいたpdf「民謡の収集について―概念史研究の立場から」を参照してください。
「民謡」概念をどのように扱うべきかを提示してあります。
「大衆」の語は、日本の場合、1920年代に、社会主義者、高畠素之が”mass”の翻訳語として用いたのが嚆矢です。
これは、しかし、社会主義運動の用語で、必ずしも、一般に拡がらなかった。
それ以前、明治期から、それぞれの含意で「大衆」を用いた用例は見かけます。
早くは『自助論』に、peopleの訳語として登場するが、これは文脈からキリスト教の宗門の徒という含意でしょう。
また、夏目漱石がケンブリッジ大学の食堂で見かける学生たちを「大衆」と呼んでいたと思いますが、これも同じような含意があると見てよいでしょう。
「大衆」(だいす)の語は、日本では、古代から「一山の大衆」など、大勢の僧侶の意味で用いられていましたから。
それゆえ、それらは定着しなかった。
白井喬二は、高畠素之の用法を文芸に転用したのです。そして、それが拡がった。
仏教界は、この転用に反対しました。しかし、大量宣伝時代に入った時期の趨勢には勝てなかった。
国際的に見ても、エンゲルスが20世紀に入ってから用い、ドイツで「マッセン・ストライキ」などに用いられて、
拡がったと見てよい。ゼネラル・ストライキ(統一スト)に対して、散発的なストライキを総称していたようです。
この背景には、ロシア革命で、ボルシェビキが、労働者階級と農民貧困層を結び付け、「ナロード」と呼んだことがある。
これはロシア語で”people”を意味する語を転用したもの。日本では訳語に「人民」の語が用いられた。
「人民」は古くからの中国語で、同じく”people”に相当する語でしたが、
日本では、このとき、「人民」に左翼用語のニュアンスがつきました。
1920年ころは、国際的に、先進国で工場生産過程に流れ作業方式(フォード・システム)が導入され、
大量生産/大量宣伝/大量消費の歯車がまわりはじめ、廉価な商品が階級を越えて出まわりはじめた時期です。
チャップリンの映画、『モダン・タイムス』(1936)が風刺した光景です。
いよいよ、人間が機械部品のように扱われるようになった。
早くにその現象を指摘したのはトマス・カーライルです。イギリスで工業革命(産業革命)が一段落した1830年ころです。
人間の手足が機械のように用いられている。教会の組織も機械みたいになっている。社会も賃労働で動いていると告発した。
エンゲルスは、これを読んで感心した。マルクス主義の出発点になりました。
カーライルは、といえば、かつて偉大な人間が歴史を動かした時代を「英雄崇拝の時代」として描きます。
なお、明治期にお金で徴税されるようになったので、資本主義になったといいますが、
日本の場合、労働者が階級として形成されるのは、20世紀への転換期からです。
軽工業が先行し、日露戦争を前後して、行政主導で重化学工業が展開し、
産業構造がドラスティックに変化した。これが日本の「工業革命」です。
新中間層(ホワイト・カラー)も形成される。月給制も定着する。念のため。
日本では、その延長で、大衆社会に突き進んだ。
大衆社会化は、各国それぞれの特殊性をもっています。
アメリカではカタログ販売が盛んで、早くからデザインが優先される傾向があるなど。
日本の場合、代表的な商品は、1923年前後に全国紙化した日刊新聞(全国紙も国際的に珍しい)、
一冊一円で大量の活字を詰め込んだ円本、光度を増した電球などからはじまりました。
ラジオもそうです。大衆雑誌『キング』は、エリートの帝大生も読んだ。みな、階級を超えて消費された。
これらが「大衆文化」です。
この時期、「民衆」という語と「大衆」という語が入り乱れて、ほぼ同義で用いられています。
「民衆」と「大衆」のけじめがつかなくなった遠因は、このあたりにあるようです。
それらを消費し、不安定な意識を共有する、階級を越えた不定形なグループが「大衆」と呼ばれました。
新聞を読み、ラジオ放送を聴いて情報を共有する不特定な集団に代表されます。
国際的に、この不特定な集団の動向が、政治に大きな影響を及ぼす時代が到来しました。
1920年代のイタリアのファシズム、1930年代のドイツのナチズムが、この階級を超えた層の運動として登場しました。
ナチスは政権をとってから、ラジオと映画を大衆向けのプロバガンダに用いました。
なお、映画は、レーニンがメンシェビキとの党派闘争にドキュメンタリー映画を用いたのに倣ったものです。
ラジオ放送も、映画も、文字を読めない人びとに訴えるのに最適でした。(ただし、日本は識字率が高い。)
この「大衆」の政治の舞台への登場は、全く新しい事態だったので、イギリスではE・H・カーらが共同研究し、
以降、社会科学の用語として、”mass”が定着しました。マス・メディア、マス・カルチャーの「マス」。
1920年代以前に、そのような社会状態は、国際的に、どこにもありませんでした。念のため。
(先蹤としては、都市の「群衆」があげられますが、政治動向を規定するまでにはなっていない。
ロシア革命の労農同盟は、前衛党によって率いられたので、厳密には定義から外れる。
パリ・コミューン(1871)は、商店主や官吏が主体。
これをプロレタリアートのように称したのは、カール・マルクスによる「歴史の捏造」。
日露戦争終結に反対した日比谷暴動は、戦果が小さいことへの一過性の不満、群衆ナショナリズムの憤激です。
翌年は東京の市電スト反対集会が暴動化した。足尾鉱毒被害に抗議するデモもしばしば荒れた。
これらが重なっていき、大逆事件を越えて、男女の工場労働者のストライキが大きくなってゆく。
みな、賃金や団結権をめぐるもので、政治闘争ではない。ピークは1920年、1921年。指導者は大杉栄や賀川豊彦ら。
日本がILOを傘下に抱える国際連盟の常任理事国になり、国際協調路線をとり、一定程度、弾圧を弱めたことが大きい。
だが、政府は、普通選挙法を成立させたことと引き換えのようにして治安維持法を実施し、非合法活動の取り締まりが強化される。
労働組合の数は、その後も増えるが、争議件数は減る。入れ替わるように小作争議が増えるという成り行きです。
小作争議がそれまでなかったという意味ではありません。念のため。
「大衆」(mass)は20世紀の概念。今日にも続いています。
日本に「大衆文化」(mass culture)が古代からあった、などといえば、国際的に学界では、笑われる。(2018/04/07)
(見世物や演芸の見物が階級を超える現象は、古代から東西に見られる。が、もって大衆が成立していたとはいえない。
日本の場合、中世の連歌あたりから俳諧連歌に、身分を越えた集まりが見られるが、江戸前期には消え、
中期の狂歌あたりから再開される。これは無礼講などにはじまる場の問題だけでなく、
次第に「四民」の対等意識が拡がることと関係している。前回のコメントを参照。)
?「純文学」対「大衆文学」のスキームについて。
日本の「大衆小説」は、1930年代半ばに、現代もの、恋愛小説やユーモア小説も加え、
シリアスな「文壇小説」に対する娯楽性の強いジャンル概念になります。そのころ、質を上げる動きも見られる。
近代概念の「芸術」は、いってみれば高級娯楽ですから、芸術性と娯楽性は本質的に背馳しません。
思想性の高さと娯楽性の高さも背馳しません。それらを兼ね備えるのは至難のワザですが。
戦前・戦中期の「大衆小説」の書き手は、みな大人の知識人です。それなりの見識があって、書いています。念のため。
戦後のカストリ雑誌の書き手から、そうは言えなくなる。
釈迢空『死者の書』(1939)は、奈良時代の精神文化史を背景にした、知的な要素も多分に含んだ、長篇フィクションです。
しかも、民衆芸能の諸ジャンルの形態をたっぷり取り込んだジャンル総合小説です。
その点では、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(1922刊)を凌いでいる。
だが、「話体」が基調なので、あまり「純文学」らしくない。それで、そういう評価はなされてこなかった。
『ユリシーズ』も通俗的なテーマ(題材)に富んでいます。だが、方法を革新した。
『死者の書』は、奈良時代が舞台です。上代についての折口信夫の学説と虚構とが組み合わされている。
大津皇子は、人前で処刑されたことにしている。史書の記述とは変えてある。
虚構のつくり方は、現代文学です。その点、彼の「しんとく丸」とは性格がちがう。
モチーフは「若き戦没者への鎮魂」という説が流布しているらしい。
では、なぜ、古代王権への反逆者ばかりをとりあげたのか?
「山越しの阿弥陀像の画因」(1944)にとらわれていては、作品は読めない。
作家の自解をあてにするな、ということは、『日本文学の論じ方』で一章を割いて書いてあります。
日本の文芸批評の方法が、偏っていたとしか思えません。
題材、生身の作家の思想や生活に意を注き、作品の表現、形態、方法、構成などに無頓着なのです。
そして文芸の歴史に配慮しない。配慮しても、文芸思潮を追うから、表現の実際は無視される。
どうぞ、『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』を読んでください。
あなたの近現代文学史観を揺るがすと思います。文芸の批評や研究方法にヒントを得るところもあると思います。
テーマに囚われて、方法を読まないし、表現の実際が読めない人が多すぎます。
また、一人の作家の一部の作品しか研究しないから、同時代における表現の特徴も、作品の個性もつかめない。
『死者の書』論に限りません。梶井基次郎からはじまって、最近の宮沢賢治論も鴨長明論も、
わたしの仕事は、すべて、作品論の更新と文芸・文化史の編み換えを相互的に進める作業です。
そして、古典の研究も、近現代を通して行われてきたものです。
近現代の思潮がわからなくては、先学の仕事の意味もつかめない。それでは超えていけない。
大西克礼は『幽玄とあはれ』(1939)を書いたのち、『万葉集の自然感情』(1943)を論じた。
佐竹昭広「自然観の祖型」(1989)は、それを超える見解を出した。
大西克礼は「美学」だから関係ないという態度ではない。きっと、佐竹氏は若いときに読んでいたのだと思う。
けれども、『万葉集』に仏教的無常観を探るという大枠は、大西克礼の問題設定に囚われていた。
無常観は、『詩経』『易経』(「易」は変化をいう語)にも、『孫子』にも、陶淵明の詩にもある。それぞれに意味がちがう。
山の葉が黄や紅に変化し、「自然」(自ずから然り)に錦を織ったという『万葉集』の「歌謡」は、まさに景物の変化を謳ったもの。
季節の循環する恒常性を前提にした変化の相を愛でるのは、仏教的無常観とはちがう。
むろん、「アニミズム」でも「シャマニズム」でもない。「シャマニズム」は善悪二神論。鳥居龍蔵が正しい。
『万葉集』の「自然」観、「無常」観には、まだ、研究の余地がずいぶんありそうです。
「大衆文学」に戻ります。
1935年ころ、一時期、隆盛を誇った「プロレタリア文学」の流れなど社会性の強い傾向に対して、
一部の人びとが芸術性の高い(つもりの)小説を「芸術小説」ないし「純文学」と呼びはじめます。
世代にかかわらず、谷崎潤一郎など意識的な人は「いわゆる」をつけている。
文壇は二つに別れましたが、新聞小説などは、その中間を行きますから、
小説の全体を二つに分断して考えることはできません。「中間もの」を名のるシリーズものも刊行されました。
第二次世界戦後には、シリアスな題材を扱って肩肘張らずに読める「中間小説」を掲載した雑誌が定着しました。
『オール読物』『小説新潮』『小説現代』などです。いまに続いています。
それに対して『講談倶楽部』などは大衆小説雑誌を売り文句にしていました。
にもかかわらず、1960年を前後する時期から、「純文学」対「大衆文学」の図式が文芸批評に用いられるようになりました。
戦後の政治性・社会性の強い「純文学」が「中間小説」に圧されはじめた危機感から、平野謙が口火を切り、
「純文学変質」論争が1961年に行われ、この論争によって文芸批評界に定着しました。「文学事典」類に確認できます。
わたしのジャンル概念研究は、ここに発しています。『日本の「文学」を考える』(角川選書、1994)。
ただし、この本のころには、まだ、多分に文芸評論のレトリックを用いています。
島村抱月がスペイン風邪の流行するなかで公演を続けるなど、「自殺に等しい」と書けばよかったのに、
「自殺した」と書いてある。若気のいたりで、そのぐらいわかるだろうと想っていた。
でも、学界や教育界では「まちがい」と非難されてもしかたありません。
そのようなところもあるので読まれる方は気をつけてください。
いまは気をつけていますが、時たま出ます。
『日本語の「常識」を問う』で、『書経』(尚書)は「書道のテキスト」と書いて、webで揶揄されました。
中国書道の専門家にしか、意味が通じないことに気がつかなかった。
粗忽といわれてもしかたありません。書体の問題であることはミスプリ訂正欄で直してあります、
いわゆる『古文尚書』の杜林本 → 魏の「三体石経」の篆書体 を念頭においていました。
書道博物館をつくった中村不折の仕事の全体に、こだわりがあるからですが、
一般書で、手短かにふれようとしたのがいけなかったと反省しています。 (2018/4/20 追記)
平野謙は戦後派の「純文学」に、政治性・社会性の強い小説に「アクチュアリティー」という語を用いました。
娯楽性の強い「大衆文学」に対して用いた。
(この「アクチュアリティー」の概念ととりくんでいた院生の人たちがいましたね)
これは戸坂潤の用語を転用したものです。
1930年代から、政治・社会の現実を書く小説に「アクチュアリティー」(時局性)という用語を用いていました。
これは、プルーストのような「内的リアリズム」が盛んになったことに対して、呼びわけたのです。
『日本イデオロギー論』(1935)のなかに出てきます。なお、この呼び分けは、芸術性を基準にしたものではありません。
『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』(2015)に書いたと思います。
?このような概念の転用は、しばしば起こります。それに類する例をあげてみましょう。
ア) 1958年、中村幸彦「近世儒者の文学観」が、江戸後期の読み物類を「大衆文学」になぞらえました。
江戸後期は、士農工商の職分が、制度においても意識においても崩れていた。そこで、アナロジーした。
それはわかる。が、四民の職分制がなくなっていたわけではない。言い換えると、職業選択が自由になっていたわけではない。
「四民平等」が宣言されたのは、明治5(1872)年末の徴兵告諭。(戸籍簿の統一が先行していたが)
だから、精確には、比喩としても成り立たない。
『座談会 明治文学史』(1961)の面々の議論には、先の中村幸彦の議論が響いている。歴史的限界です。
これは『日本文学の論じ方―体系的研究法』でも確認しておきました。
このあいだ亡くなられた平岡敏夫氏がわたしの『日本の「文学」概念』を読み、手紙が来て、
「比喩とすればよかったのですね」と書いてあった。が、誤解が生じやすいと思う。
比喩にも有効なものと誤解をまき散らすものとがある。
新しい学問ジャンルをつくるときに、概念の借用は不可欠です。概念を全く新しくしたら、誰にも通じない。
19世紀後期の「熱力学」(エネルギー工学)の形成期には、市場用語も借りた。
これはエンゲルスが指摘していた。ジャック・アタリ『話し言葉と道具』(1975)が、それを引用し、批判しつつ、このことを力説している。
ストックとかフローなどもそう。けれども、説明概念に比喩を用いたら、比喩だと断っても、一人歩きしてフローしてしまう。
ジャン=ジャック・ルソーは、国民国家を考えたとき、人間の身体にたとえた。これが国家有機体論のもとになったらしい。
「らしい」というのは、イギリスの自然権の議論には出てこないから。グローティスもホッブズも、ジョン・ロックにも。
国家有機体論や社会有機体論は「なぜ、悪いか」という質問をされたことがある。
近現代の国家全体主義のイデオロギーを支えたのはこれ。念のため。
日本では、外山正一の講演録「人生の目的に関する我信界」(1896)が突出している。
これは、加藤弘之の「家族国家」論とも、穂積八束の「血統国家」論とも、はっきり区別すべきだ、
と、最近、思うようになった。
中国では、前漢の董仲舒のころから国家身体論。五行を五臓にあてはめるから、中国では起こりやすい。
ただし、天子や皇帝を頭には置かない。古代から脳みそは知られていたが、ほとんど空だと思われていた。
だから、東洋では、マインド(頭脳)とハート(心臓)を截然と分けなかった。(ギリシャ古典後期には、知性と感情をわけはじめる。)
『孟子』が心の四端の第一に「惻隠の情」をあげ、張載『正蒙』に、「心」が「性」と「情」を統べる、と出てくる。
それを高く評価した朱熹は「性即理」。だが、陸象山、王陽明は「心即理」。ここが大きな分かれ目になった。
そして、このことが日本の前近代における知性と感情の関連を考える大きな手掛かりになる。
と、ここで止めて、もとに戻りましょう。
江戸時代に「日本文学」の概念も、「大衆」の概念もなかった。「純文学」も「大衆文学」も、歴史的に意味を変えてきた。
これらは、どれも超歴史的に用いることができる普遍的概念ではありません。
当時の当事者の立場を内在的にとらえるという意味で、内在的実証主義の立場に立つなら、これらを比喩に使わない方がよい。
「文芸」なら、文の芸の意味ですから、混乱は起こりにくいとは思います。が、「芸」を近代的な意味の「芸術」とされたら同じです。
『土佐日記』はフィクションだというのはよい。
が、だから「文学」だ、「芸術」だ、などという議論は、近代概念を尺度にした議論です。いまでも見かけますね。
とすると、ノンフィクションの『和泉式部日記』は、「芸術」ではないことになってしまう。それでいいのかな。
上代で「抒情詩」にこだわるのも、わたしは近代の「芸術」概念がはたらいていると思います。
用語は、ある意味、どうでもいい。あくまで概念、コンセプトの問題です。
歴史的概念は、普遍的な分析概念に用いることはできない。「ジェンダー」などとはちがう。
なお、清沢洌は「モダン・ガール」論で、すでに性の文化差について論じていました。これは1980年代後半から言ってきたことです。
むろん、「ジェンダー」も適用するには、歴史的・地域的特殊性を考慮すべきですし、男性性、女性性に二分しているのは限界がある。
「ジェンダー」の原義には、多く「中性」もあるのに。
トランス・ジェンダーが流行しているが、多くの詩人、歌人、作家は、心理的には両性具有的です。
そうでないと男女を内側から書き分けられない。
イ) 次の例。鶴見俊輔 『限界芸術論』(1967)が、美的経験を得る芸術を、今日の用語法で、次の3つに分類した。
専門家によってつくられ、権威をもつ「純粋芸術」(pure Art)、
企業家と専門家によってつくられる、俗悪な「大衆芸術」(Popular art)、
非専門家によってつくられ、非専門的享受者に享受される「限界芸術」(Marginal art)に分けている。
20世紀のマス・コミュニケーションが発達したゆえに 「純粋芸術」と「大衆芸術」は引き裂かれた。
そのなかで、「限界芸術」を考えなおしてみましょう、というのが、鶴見さんの提案である。
言い換えると、一般の人々が生活のためになす行為や、生活用品などに美が見出せるものが、
「限界芸術」ということになろう。
5000年前のアルタミラの壁画、落書き、民謡、民画、絵馬、日用使いの陶磁器(下手)、盆栽、漫才、
花火、マンガなどがみなそうだという。
「純粋芸術」と「大衆芸術」が現代の用語法なのに対して、「限界芸術」は超歴史的な概念。
「生活のなかの芸術的要素」に着目した提案はよいとしても、これでは、いかにも粗っぽい。
?まず、美的経験の全般をいうなら、範囲はもっと広がる。
鶴見さんは、限界芸術を考えた人びとのなかに、ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスをあげている。
ラスキンは、アルプスの美と建築美、
モリスも自然環境、都市環境、住居内を含めて「生活の芸術化」「芸術の生活化」を唱えた。
自然美、建物などもふくめ、いわゆる観光も加えるべきではないか。
わたしは、永井荷風の随筆は、相当、モリスを意識していると想う。論文が書けそう。
谷崎潤一郎は、『陰影礼賛』を書いている。蝋燭の明かりが醸し出す美への注目。
そもそも、カントにしても、ヘーゲルにしても自然美を問題にした。
カントは、神の目的と自然の美を結び付けた。個人の趣味の問題になると、恣意としてしか考えていない。
へーゲルは生物にこだわった。生命にこだわっていたからだ。
それはともかく、自然美や動物の生態などをふくめ、20世紀に発達したドキュメンタリー映画は、
まぎれもなく、大衆芸術の一種だが、「俗悪」とはいえまい。
マス・コミュニケーションとの関係では、報道写真にも、低俗とはいえない美がある。
スポーツの美は。ナチスのオリンピック映画もあれば、市川崑の東京オリンピック(1964)の映画もあった。
どうにも、鶴見流の「純粋芸術」対「大衆芸術」の対立図式がわたしには受け付けられない。
それが思いつき的なのは、柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治についてそれぞれ論じたいことがあり、
それらをつなぐ線として、まず「周縁的な芸術」という観念が浮上し、それを20世紀の芸術状況に
置こうとしたからではないだろうか。
3人とも、20世紀の現実と対峙して仕事した人たちであり、手がかりにした思想も、その対峙の仕方も、
それぞれにちがう。
柳田国男の民謡論は、消えゆこうとしている民衆のうたのことばの芸に集中している。
それは広義の「芸術」概念だ。柳田国男は、表現と享受の現場を感覚でよく捉えている。
柳宗悦は、器械文明に対して、吹き上げる大地のいのちのうたを民芸に読もうとした。
ラスキンやモリスが職人の工房仕事を主張したのは、
製品を仕上げることを許さない資本制生産様式に対する、直接的でわかりやすい対抗措置だった。
彼らは同じく生命原理主義に立っていても、柳宗悦の思想には、集団制作の必然性がない。
彼が組織したのは、個々人の芸術家の寄り集まりでしかない。
鶴見は、その点を突こうとしているが、柳宗悦の思想をギルド主義として批判していまっている。
宮沢賢治は、「限界芸術」論の線だけでは、とうてい論じきれない。
その表現の即興性は、飛躍に富み、絶えず位相を転換する。
そういう表現を自分に許す。というより試している。
詩集を編むために、作品に仕上げる改稿もあれば、着想を正反対に転換する改稿もある。
?本当のところ、「純粋芸術」と「大衆芸術」は、横並びの関係にならない。
「大衆」の歴史的規定性を無視している。“Popular art”を「民衆芸術」と翻訳するなら、
民謡、民画、漫才などは、近代に「純粋芸術」が生まれる以前からあり、
むしろ、「大衆芸術」と対立する。花田清輝は、その点、よく了解していたと思う。
?そして、このように並べる限り、「純粋芸術」は「大衆芸術」に対して、
質の高いと見なされているものを呼び分けていることになる。
民衆ないし大衆の歓ぶものの方が優れている、という価値観を無視して、
それを企業との結託のように考えてすませているところがある。
?ギルドも顧客の注文に応じる企業だ。ただし、不特定多数の顧客ではない。
「純粋芸術」と「大衆芸術」ならぬ「民衆芸術」とのあいだにも境界はある。
「限界芸術」は、その意味でも、「純粋芸術」と「大衆芸術」の「境界線をなす」という位置づけは、
成り立たないはずだと思う。
?そこで、鶴見さんの問題意識を活かすために、
表現行為の目的として美(他者に感動を与えること)を狙うものを「芸術的実践」と呼ぶことにする。
a). それでも、表現の立場と鑑賞の立場を区別すべきだろう。
表現者(行為者・制作者)が意図しなくても、鑑賞者が勝手に美を感じるということがある。
また、表現者が意図する美も、鑑賞者の美意識も、歴史的に変化してきたことを考慮する。
b). 美を目的にしない表現(技芸一般)が美を伴うものを「限界芸術」と呼ぶとしても、それも目的によって分かれる。
生活用具などをつくる「技術的実践」(たとえば日用使いの陶磁器)と宗教儀礼など「呪術的実践」(絵馬)とは
制作の目的がちがう。
そして、社会的意味が変化するものがある。
花火は、ヨーロッパでも、東アジアでも、祝祭や儀礼などに発して、
日本の江戸時代に民衆の娯楽の一つになったが、そのときには、スポンサーの宣伝が伴っていた。
技術的実践の場合、制作者にとって、本来の機能のための部分と装飾的な美とに分かれることが多い。
装飾的な部分は、「純粋芸術」にあたってしまう。また、それとは別に機能美もある。
宗教儀礼など呪術的実践では、行為も制作も、すべてが神への祈りだから、
実践者にとって美的要素は、それとして分かれない。
しかし、信仰をともにしない、鑑賞者にとっては、美的要素を切り分けることもできる。
言い換えると、真・善・美は未分化。前近代の「芸術」(技芸一般)は、基本的にそういってよい。
そもそも、理性にかかわる「真」・「善」と、感情にかかわる「美」の切分けを行ったのは、
イマニュエル・カントの『判断力批判』。。
ギリシャ古典は「善」「美」を一つにしたり、中国古典も「真」「善」「美」を一つにして考えたり、人によってちがう。
哲学だけでなく、産業社会化のなかで、職人が労働者と芸術家に分岐したということは、前の議論でふれた。
ウ) 日本の古代歌謡の考察に、この鶴見俊輔の「限界芸術」論を転用したのが、土橋寛。
歌謡を、生活のなかに生じる「芸術」の意味で用いた。
岩波の『日本古典文学大系3 古代歌謡集』(1957)の巻頭の「解説」のなかで、
鶴見さんの概念を借りるとはっきり書いている。これを便利に分析概念に用いた。
そして、歌謡一般を、歌い手により、民衆による「民謡」と専門家による「芸謡」に分け、
「芸謡」は、「創作歌のように作者の自己表現を目的にするものにならない」と述べている。(p.9)
とすれば、「創作歌」は、「純粋芸術」にあたると考えていることになるだろう。
だが、「創作歌」でも教訓を垂れる。
山上憶良には、律令官僚の立場から、山に隠れて仙人になるな、と呼びかけるうたがある。
真・善・美は未分化。
土橋寛は、ここで「宮廷歌謡」に言及している。 物語のなかに組み込まれているのが多いと述べている。
それゆえ、古代歌謡の研究は、「独立して記された歌謡を足場に、物語に結びつけられる歌謡の実体を究明することから
出発しなくてはならない」と述べている。(これが、03/17の質問者のいう転用論の意味でした。質問者はちがう人ですが。)
土橋寛は、物語に結び付けられるときに改作されることも考えているし、物語にあわせて作られる歌謡もあると考えている。
後者は「転用」とはいえない。特殊な「創作歌」ということになる。歌謡から地名起源譚など、神話がつくられることもあろう。
だが、それに「類歌」があれば、替え歌にあたる。
むろん、土橋は「類歌」にも言及しているが、替え歌は、すでに詠い手の個の分立であり、その意味で一種の自己表現といえる。
集団の「民謡」と個人の「芸謡」と自己表現の「創作歌」の関係は入り組んでいるが、
3つの本質規定はできる、と土橋は、いっている。自己表現の「創作歌」の本質が抒情歌といいたいらしい。
わたしは、そんなに簡単に本質規定できないと考えている。
物語に組み込まれたら、国誉めの儀礼歌も、個人の懐郷の抒情歌に意味を変える。
『古事記』に、小碓命が最期にうたったとされているうたは、
『日本書紀』には景行天皇が日向で詠んだうたとして載せられている。
後者は、国誉めの儀礼歌を懐郷のうたとして組み込んだもの。
この場合は、『日本書紀』のうたの方が歌謡のもとのかたちに近いとはいえるでしょう。
それを『古事記』では、小碓の絶唱に仕立てている。
これは神話の編集によるもので、歌謡自体が叙事詩か抒情詩か、と考えることにたいした意味はないことになる。
そもそも、集団でも個人でも叙事詩も抒情詩も作りうる。
土橋寛は、歌謡の特性として「即境性」をいう。その場の環境に即してうたうという意味だ。
自己表現は、環境から自立しているというのだろう。が、実景・実感をうたうのは、個人詠にもいくらでもある。
個人詠は、あとで推敲できるが、歌謡も、うたい継がれているうちに、より共感を呼ぶように改作されることもある。
実景・実感をうたうのが漢詩の基本ルールだ。夢見も本当に見た夢なら記してもよいとされる。
ウソはいけないのが根本。日本でも、相手を「僻事」と非難する際のおおもとは事実性による。
そして、マコト(誠)が倫理規範になる。朝廷に対して二心のないことが「清き明かき心」と称揚される。
もともとは「清明節」から来ているので、中国の詩には、この季節の景物をうたう詩がたくさんある。
日本のうたなら、佐保姫が出てくるのは、それに類する。
だが、「清き明かき心」を「すがすがしい」に近い意味では用いない。王権に背く心がないという意味しかない。
上代では出てこない。これは確認した。平安時代にもないと想う。宋学以降の儒学系にもないはず。
とすれば、後世の付会となる。実は、ふたつの意味をつないだのは、賀茂真淵でした。(2018/04/07)
歌謡を編集する際の「仮託」が頻繁になされていることが日本的特殊性といえばいえる。
『懐風藻』にも、女に仮託して詩をつくつている詩がある。
『土佐日記』の仮託や虚構性の問題にも響く。「つくり物語」の価値の問題になる。
『栄華物語』に、道長を称揚するのに光源氏が比喩に用いられている。
歴史叙述に架空の人物を比喩に用いることなど、中国では絶対ありえない。
「伝奇」「志怪」は別ジャンル。そういう規範外れが日本では起こる。それが面白いところ。
天皇の「代作」という行為も、朝廷儀礼という場所的・集団的規定性があって初めて可能なもの。
土橋寛は、歌物語まで射程に入れて考えているが、歌物語も、「歌語りの場」が生み出すもので、
継続的な集団的営為になる。そもそも、歌物語は作者を特定すべきものと考えられていないと想う。
これは『鴨長明―自由のこころ』に書いたはず。
要するに、土橋寛は自ら述べているように、歌謡の「実体」に接近しようとしている。
『万葉集』の歌謡についても同じように考えている。『万葉開眼』(1978)「万葉序説」を参照。
わたしは、『万葉集』巻一のイワノヒメのうたなど、うたの配列の仕方の見事さに感心すると研究会では話した。
「あなたを一晩待って、髪に霜が降りた」といううたを、「あなたを一生待ってすっかり白髪になった」といううたが並んでいる。
その替え歌ぶりに感心した編者が、2つともイワノヒメのうたとして、隣に載せた。
ないしは、二つの歌謡を並べることで対比の面白さを示した。漢詩の「比」の応用ともいえよう。
『万葉集』でも「編集の思想」を問題にしたい。
替え歌なら、後者は、土橋のいう「創作歌」に近いと思う。つまり、歌謡と創作歌は、本質的に区別できない。
玉櫛笥(たまくしげ)、みむろの山の、さな葛(かづら)、さ寝ずはつひに、有りかつましじ
この藤原鎌足のうたに仮託された歌謡の最後「有勝麻之自」は、他のうたでは漢字の表記がちがう。
そういうところまで、問題にしうるのではないか (これは研究会の懇親会で話したこと) 。
歌謡を物語に組み込むのも、歌謡から物語を紡ぐのも、ふたつのうたを隣にのせるのも、漢字の書き分けも、
「編集の思想」による。
編集の思想を併せ考えることによってこそ、いわば歌謡の「実体」に接近することができるのではないか。
わたしは、神話から歌謡を切り出して考えようとした土橋寛の仕事は、画期的だと思う。
それまで和辻哲郎らは、歌謡とストーリーとを一体のものとして読んでいた。
だからこそ、その先学の仕事を検討する。「限界芸術」論を借りた「うたの三分野」の方法を批判し、
概念を組み替えれば、研究を、より先へ進められると思う。
土橋寛の「転用論」に対する批判の「方法」を変えるという意味です。念のため。 (以上)
50年前の学説であろうと、100年前のものであろうと、受け継がれ、組み換えられながら、
今日のわれわれの頭に刷り込まれ、思考を規定しつづけているものがある。
それをチェックしているのです。念のため。(2018/04/07)
(2018/03/28)
(2018/03/12) 記事に追記しました。
(2018/03/17)
〇鈴木貞美「『民謡』の収集について―概念史研究の立場から」について、三月四日の研究会の参加者から質問が寄せられました。
「もともと民間歌謡の収集は、『詩経』『楚辞』(漢語訳のみ残存)に発し、「風」(国風)、すなわち地方色をもりこむことを習慣とした。
宮廷詩人が作ったものにも、民間のその調子を活かすものがあった。それを受け取った日本では『古事記』『日本書紀』に、
民間歌謡の収載が見られ、しかも、それは日本の地方色としてヤマト言葉をいわゆる「万葉仮名」方式で記述した」
とあるが、それでは、宮廷歌謡(宮廷でうたわれていたストーリーつきの歌謡)を無視していることにならないか、
というものです。土橋寛の歌謡の転用論と同じではないかともありました。
宮廷歌謡は、歌謡の伝承の場の問題であり、その規定性を考慮すべきです。
近代における「民謡」概念の発明論とは議論の水準(位相)がちがいます。
土橋寛の転用論は、『記』『紀』『風土記』『万葉集』それぞれの編集の思想のちかいを考える方向に向かうべきです。
今日の議論は、「叙事詩」「抒情詩」問題など、編集の思想を無視して、歌謡のテクストをいわば実体化しているため、
隘路に入り込んでいるように思えます。それを映した質問でしょう。
常々、考えてきたことであり、一体何が問われてきたのか、
津田左右吉、和辻哲郎、土居光知、高木市之助、折口信夫、土橋寛、そして石母田正あたりまで、
古代神話とそこに組み込まれた歌謡、および『万葉集』における歌謡の転用について、
問題の立て方、問題意識のちがいを大雑把にまとめてあります。
長くなるので、pdfにリンクを張ります。質問への回答。「叙事詩」「抒情詩」問題のことなど。〔 〕
(2018/03/12) (青字は2018/03/15,16, 23. 緑字は03/25, 27追記)
〇2018年3月4日、東京で上代文学を研究する大学院生の会で、1時間半ほど、
日本の「文学」概念と『万葉集』の自然観について話しました。
面白かったという感想も寄せられているようですが、受けた質問から、大きく2点、根本的な誤解がまだ存続していること、
日本の「文学」概念の近代的再編制について、その内実がよく伝わっていないことに、気づかされました。
1. 一つは古代「歌謡」や「民謡」の概念についてです。
それらは、二つとも、近代に「発明」されたかのような理解が一部に残っているようです。
「民謡」概念も、それを担った「民衆」の概念も、それぞれ相当するものが、古代から中国にも日本にもありました。
そもそも漢語の「歌」は、民衆の歌謡です。『詩経』や『楚辞』には、民間の「歌謡」が多く収録されています。
それは『万葉集』の編者も、紀貫之らも、本居宣長(「石上私淑言」)も、
日本で初めて「日本文学史」を編んだ三上参次・高津鍬三郎らも、みな、よく承知していました。
それが最もよくわかるのは、『閑吟集』〔真名序〕かもしれません。
ただし、『古今和歌集』序文とは、自然観の根本が転換しています。
『古今和歌集』〔序文〕が『詩経』〔大序〕から受けついだ、生きとし生けるもの、みなうたをうたうという理念が、
雨だれなどの例をあげ、万物がみな、うたをうたうに転換しています。ここが面白いところです。
これは未発表。現在、執筆中の『日本人の自然観』に書きます。
また、「百官」に対する「百姓」、「四民」のうちの農・工・商。ヤマトコトバの「おほみたから」など、
みな「民衆」(people, 被支配階層)の意味です。
「四民」は『続日本紀』に出てきます。私度僧が「四民」を惑わしている、とかなりきついことばで書かれています。
このように、かつて「民衆」にあたることばと概念は、さまざまにありましたが、
日本近代に、近代ナショナリズム(国民国家主義)によって、「国民」のなかの「平民」に組み替えられました。
〇近代ナショナリズムは、多くの伝統観念を新たに生みました。それにちがいはありません。
ですが、そもそも、「伝統」や「tradition」の語は、どちらも古い家の血筋や旧家の因習を意味していたものです。
それに近代ナショナリズムによって、「国民の文化伝統」という意味が加わったのです。
古い概念(ことばの意味)がそっくり入れ替わるようなことは、まず起こりません。
制度も同じ。次第に組み替えられてゆくのです。
ホブズボームらの 「伝統の発明」論は、精確には、習俗に関しては、「伝統の再組織化」、
精神文化に関しては、「伝統の再解釈」と理論化すべきことが多いのです。
スコットランドの民族衣装のキルトは、19世紀半ばのロンドンの仕立て屋さんの発明ですが、
あのタータン・チェック風の布は、以前からスコットランドの伝統でした。
アフリカの原住民の踊りには、大英帝国の外交官を迎えるために、より派手な演出が加えられました。
これもホブズボームらは「伝統の発明」と呼んでいます。
なお、「民族」の観念が、近代の産物のように考える見解が一部にあるようですが、
中国では「蛮夷」などの考えは古くからあります。
ヤマト王権は、蝦夷を完全に「異民族」扱いしていました。蝦夷の「部族」を次つぎに服属させてゆきますが。
「南蛮」渡来という語も、ありましたね。
概念は組み換えられる。それには歴史がある。ことばの意味に変遷があることは、みな、知っている。
が、具体的になるとおぼつかない。
国語学者は、用例の細かな変化にこだわりがちです。
詳しくなればなるほど、概念の組み換えに疎くなる傾向を免れない。国語学に限りませんが。
日本の近代天皇制は、古代からかたちを変えながら存続していた天皇制を、
ヨーロッパの「立憲君主制」にならって、新たに国法に規定したものです。
国法を「憲法」と呼んだのは、かつて「一七条憲法」があったからです。これは古代の用法を呼び返したのです。
それに先立ち、「紀元節」なるものが創設されました。江戸時代まで、まるでなかったもので、これはまったくの「発明」です。
神武神話によったので、その日が三転くらいしたのも当然でした。
そして、古代からの「天皇制」の「伝統」の理論化をめぐって、久米邦武の筆禍事件があり、
また南北朝正閏論争など、明治末まで論議が繰り返されました。そののち、論議することもむつかしくなった。
このあたりのことは、一般書では『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書)にまとめてあります。
〇 「日本文学史」は、歴史的過去に存在した「文字による言語作品」を、
ヨーロッパ近代の「(人)文学史」に倣って、「再解釈」し、新たに組織したものです。
たとえば、『古今著聞集』がまとめられたとき、日本の「文字による言語作品」を
それとして対象化する意識が生じていたということはできるでしょう。
しかし、その部立(分類)に現れる「文学」の語は、漢詩文を意味しています。
江戸時代に「文学」は、藩校の儒学の先生の意味で用いられました。
その規範性は強く、和歌も物語も「文学」と呼ばれた例は、まだ一つも見つかっていません。
ずっと例外的な反証を探しているのですが。
江戸時代、民間に「和学」や「古学」の名で、和歌や物語を研究する学問は少しずつ盛んになりますが、
各流、各自の用法は、まったくまちまちで、規範化していません。
賀茂真淵も「歌学文学」と併称し、一つに括っていません。
これについては『「死者の書」の謎ー折口信夫とその時代』の「あとがき」でふれました。
なお、「概念」は、知識層に一般化して、はじめて「概念」です。
辞典や事典、教科書、有力なメディアの用法がその指標になります。
が、それぞれに癖がある。それを掴まないと、簡単にはいえないことも多い。
有力な個人やグループのそれは、それとして扱えばよい。
個人のことばの定義は、細部に及ぶことが多い。グループの用法には党派性がつきもの。専門家も同じです。
明治になって、古代から記されてきた言語作品が、「日本文学」に括られてゆきます。
その入れ物(器、袋、カテゴリー)は、西洋各国の「人文学」(the humanities)にならったものでした。
なお、“literature”の広義は、著作一般で、PCの使い方を書いたパンフレットも”literature”です。
われわれは、この意味で「文学」の語を用いません。
“literature”の中義が「人文学」で、これが中国でいう「文学」(文章博学)とつりあい、互いに訳語になりました。
19世紀半ばのホンコンでのことです。
そうでなければ、“literature”と「文学」が互いに訳語になることはなかったはずです。
ヨーロッパでは、狭義の”literature”が拡がりはじめていました。文字で書かれた言語芸術のことです。
これはフィクション(ロマン主義による想像力による創造性)に価値を置くもので、
ウソはいけないとする儒学、とりわけ朱子学は受けつけませんでした。
朱子学は、元代の途中から、実質的には、明代から科挙の支柱としてはたらいていました。
文字に記された言語作品一般と言語芸術作品、この二つの意味が、中国より先に日本に受け入れられ、
流布したのです。「日本文学」に、この二つの意味があることは、いまでも変わりません。
なお、中国古代にも、「文の藝」の意味の概念はありました。そのとき、「文学」は、「文」と「学」の意味で用いられました。
駢儷体のような技法を駆使した文の価値が高まったときのことです。「藝」の意味は、のちにふれます。
しかし、それは「伝奇」や「志怪」などフィクションに価値を認める魯迅らの「文学革命」以降の
近代的な概念ではありません。念のため。
明治中期につくられた「日本文学」の意味は、大学の「文学部」の「文学」です。「哲学・史学・文学」の総称です。
夏目漱石『虞美人草』(1907)のなかに「哲学と純文学は科かちがう」という東京帝大出身者のセリフが出てきます。
が、東京大学にも、帝国大学にも、東京帝大にも、「純文学」科なる学科はなかった。
「哲学・史学・文学」のうちの小さな「文学」が、「美文学」「純文学」と呼び分けられていたのです。
文学部の「文学」と区別するために。
これは、当時のドイツ語”Schöne Literatur”の影響が強く響いたものです。
”Wissenshaft Literatur”(知ないし理の文学)に対する語です。
そして、その大きな意味の「日本文学」は、当初から、和製の漢文作品、神話や宗教の教義書、
さらには民衆文芸をふくむものでした。
西洋の「人文学」は、自国語に限り、また、神の言葉に関するもの、”popular literature”は容れないのがタテマエでした。
「日本文学」の中身は、それとは大きくちがっています。
なお、欧米で、『聖書』を「文学」扱いすることは、個人ではありえますが、制度的に保障されていません。
1990年代のアメリカでは、『聖書』を文学扱いして、父兄から抗議され、辞職に追い込まれた先生がいました。
「探偵小説」などが大学で教えられるようになるのは第二次世界大戦後のことです。
これらのことは『日本の「文学」概念』に、まとめてあります。
〇 さて、「民謡」です。
明治中期に「日本文学史」が編まれはじめたとき、すでに『古事記』『日本書紀』『万葉集』のうちの歌謡も、
すでに日本の「国民文学」のうちに組み込まれていました。
また、1881年(明治14年)に『小学唱歌集初編』には、スコットランドの民謡『蛍の光』が翻訳され、載せられています。
明治後期、上田敏が「民謡」の語を用いたとき、
江戸の「小唄」を土台にして、新たな「国民音楽」をつくろうという意図を明確に述べています。
ヨーロッパの概念をヒントにして、江戸時代から農民のうたう「俚謡」、
芸者らがうたうものとされていた「俗謡」「小唄」などの意味が、
平民主義により、国民みんなの文化の一つとして「民謡」に括られたのです。
それまで地域や階層に分かちもたれていたものを、国民みんなのものにするのが近代の文化ナショナリズムです。
そのうち、国家が強調されれば国家主義、平民の立場が強調されれば平民主義(民衆主義)になる。
そのどちらも、前近代の権力のしくみ、権力と被支配層の相互関係を見ない傾向がある。
とくに江戸時代の幕藩二重権力体制は、国際的に類例がないので、
充分に分析できない時代が長く続いてきました。
〇制度においても、意識においても、江戸中期から、次第に「平等化」が進行します。
それは確かです。が、いまでも、その推移は、よくわかってないところが多い。
士農工商の職分の移動の裁可が、どのようにして行われたか。
嫁とり、婿入りなら無条件に認められたのか。
都市に出稼ぎに行って、番頭になるような場合も、必ず養子縁組しているのか?
仕組みと判定基準の地域差や時期による差はないのか?
武家や高級武士層が大商人と縁組して血縁関係を結ぶことについては、大商人の五分の一くらいという統計がある。
御家人株の売買は、鎌倉後期には、はじまっていた。江戸時代には旗本株が売買され、勝海舟の祖父がこれを買った。
が、各藩で、下級武士の身分規定、農村の郷士との関係などがちがい、城下町の商人との縁組など、実に事情が錯雑としている。
実に錯雑としていことは、坂本龍馬の例でわかる。
〇それはともかく、「民謡」については、それまで「俚謡」「俗謡」などと呼ばれていた呼び方に、
新たな呼称「民謡」が加わり、その文化の意味づけが変化した。
概念がまったく新たに「創造」されたのではありません。
繰り返しますが、古い概念も制度も、新しいものに入れ替わるわけではなく、組み替えられる。
その再編の過程がある。古いものも組み替えられて存続することも多い。
「民謡」も、「俚謡」「俗謡」との混用が続き、一般化するのは、第二次世界大戦後のことです。
これに疑問をもつ方は、鈴木貞美「『民謡』の収集―概念史研究の立場から」を参照してください。
Webで、ググれば、すぐ出てきます。
しかし、実をいうと、「民謡」は、その歌詞だけが、「文学」にあたるものです。
”oral literature”は、本当は言語矛盾を冒しています。
”literature”は、文字で書かれたものをいうのが本義だからです。
むろん、口承をふくむパフォーマンス一般を考えることは大事です。
パフォーマンス一般は、一回限りのものです。
(文字に固定されたように想えることも、個々人の読む行為により、意味が変わる。
書き換えられることもある。)
だからといって、そのうちに「名人」や権威が生じたり、一定の期間、
指標とすべき形態が生じたりすることも否めない。半面には、「作品」にあたるフェーズももつ。
演劇台本をいう”drama”(戯曲)なども同じ。
指標とすべき演出が生じ、それを超えることを狙う演出家も俳優も登場する、
(その点では作品の読み方も批評も、みな同じです。)
そのあたりのことが、概念上、混乱しなければ、それでよい。念のため。
〇 広義の「文学」とは別に、今日のわれわれは、「文学」を詩、小説、戯曲(あるいは感情表現を主とするエッセイをふくむ)
言語芸術の意味に限定して用いることにも馴れています。これが狭義の「文学」です。
それについて考えるには、「芸術」概念の組み換えにも留意しなくてはならない。
これが『日本の「文学」概念』では、できなかった。が、ステップ・バイ・ステップで進めるしかなかった。
一挙に進めれば、きっと混乱が生じたことだろう。わたしの能力も、いつも限界を負っている。
で、「芸術」概念の組み換えを加味して、明治期の個々の事例についてまとめたのが『「日本文学」の成立』です。
中国語「藝術」は、士大夫が身につけるべき「六藝」の「藝」と、医術や呪術をいう「方術」をあわせた、
「藝」と「術」。「技芸」一般を総称する語でした。
中国で、古代からの貴族層が五代の争乱を通じて崩れたのち、宋代の士大夫が嗜んだ囲碁も、盆栽も「芸術」でした。
中国語は、いまでも、この用法が活きています。
実は、ヨーロッパ語”art”も同じです。いまでも、料理も、ポピュラー・ソングも、みな”art”です。
「フランスでは料理も芸術」などといわれるのは、日本語「芸術」の意味が限定されているからにほかなりません。
自然科学の「方法」一般、あるいは「科学」(science)と「技術」を分ける場合にも、19世紀のうちは、”art”といっています。
自然科学史の本のなかに、これを「芸術」と訳しているものを見かけますが。
文献一般を意味する広義の”literature”を「文学」と翻訳するのと同じく、誤訳とすべきでしょう。
“art”すなわち「芸術」「美術」の概念の歴史的変遷も、”literature”と同じく、少なくとも三層で考えなくてはなりません。
「技芸一般」(”liberal art”の訳語をふくむ)、「近代的な芸術一般」、「絵画と彫刻」の三層です。
狭義の「文学」という概念が日本で定着した1910年ころには、
しかし、美を目的とする西洋近代の狭義の「art」の概念に、すでに組み換えが起こりはじめていました。
多神教の信仰に立つ思想を言語芸術化する動きが、「象徴主義」と呼ばれ、国際的に拡がっていたからです。
そのもとはロマン主義のなかにあります。
ルネッサンス運動によって、多神教のギリシャ・ローマ神話が「芸術」の枠のなかで享受されるタテマエが生じました。
森の水辺で遊ぶニンフたちを描いても、多神教を信じましょうというメッセージにはならなかった。
そのタテマエが壊れたのです。崩したのは、帝国主義に対して民族独立をうたうナショナリズムにより、
多神教の民族信仰の復活がはかられたからです。
「象徴」(symbol)の語源は、ギリシャ語の「割符」です。
一対一に対応するもので、抽象的観念を具体物に置き換えて表現することを言い、
「愛」の象徴をバラで示すようなことです。
東アジアにも、古代から「象徴」表現はあります。
が、長寿を「鶴は千年、亀は万年」というように対句的に示すことも多く、一対一の対応ではありません。
概念は、「寓」(和語は「ことよせ」)です。英語では、アレゴリーに相当します。
“symbol”を「象徴」と初めて翻訳したのは、中江兆民とされています。
ウージェーヌ・ヴェロンの「美学」を『維氏美学』(1883〜84)として翻訳するに当たって、
何かの「シルシとなるかたち」の意味で造語したのです。
写実主義の立場のウージェーヌ・ヴェロン『維氏美学』も、制作される形態を重んじるヘーゲル『美学講義』も、
「象徴」を原始宗教の偶像の意味でいい、低い価値しか与えていません。
この芸術的価値観を一挙に転換した、指標とすべき書物は、
アーサー・シモンズ『文藝における象徴主義運動』(1899)です。
パリの詩人たちとの交友を通じて、デカダンスの喧騒のなかにまみれていたフランス・サンボリズムを、
とりわけステファヌ・マラルメの詩を高く評価し、掬いあげたのでした。
マラルメはギリシャ神話とともに「コント・インディエンヌ」(インドの古代民話)にも強い関心をもっていました。
彼は、キリスト教にとっては邪教にあたる諸民族の信仰、寓話を復活させることを目標にしていました。
一種の精神革命を目論んでいたのです。
(それは21世紀に入って出されたプレイヤード版の『マラルメ全集』第2巻で、より明確になりました。)
20世紀への転換期、ロンドンでは、
ウィリアム・ブレイクの秘教的詩画集や「万物の生命」を謳いあげるワーズワースの詩の再評価が盛んでした。
背景には、アイルランド独立運動がありました。
この動きを受けた詩人たちと交友し、故郷ベンガルへ帰ったタゴールが
ヒンドゥーの教義をうたいあげた『ギータンジャリ』が1913年にノーベル文学賞を受賞します。
実際は、生命原理主義に傾いた解釈が垣間見えます。
こうしてヨーロッパでは、キリスト教の教義は排除する「人文学」の対象範囲に、
異教の教義が入った芸術作品が許容されるようになりました。
その芸術は信仰をも包含するもので、その意味で、象徴主義芸術は「芸術至上主義」なのです。
(“l’art pour l’art”の意味と直接、連続していない。)
日本でも、能楽なども、象徴主義と呼ばれるようになってゆきます。
フランス人宣教師で、日本の音楽界に寄与したノエル・ぺリが雑誌『能楽』で、そのように論じたのが嚆矢でしょう。
これらについては『入門 日本近現代文芸史』(平凡社新書)でふれました。
なお、象徴主義による古典評価に、音韻重視の観点が混乱を生んでいたことについては、
『「死者の書」の謎ー折口信夫とその時代』にまとめてあります。
藤原定家のうたには、超絶技巧が発揮されていますが、どこにも精神の高みや深みの追究はありません。
とても「象徴主義」とはいえません。それが象徴主義として鑑賞されるようになったのです。
その混乱は、今日まで続いています。それゆえ、評価史の対象化が不可欠なのです。
〇 日本の「自然主義」文学は、この波のなかで、さまざまな意味合いでいわれており、
実質の定かでない、ただの符丁のように「自然主義」ということばだけが流行したのでした。
石川啄木「時代閉塞の現状」(1912,生前未発表)は、
「自然主義」は混乱の極みにあるという意味のことを言っていますが、実に正しかったのです。
ヨーロッパの文芸批評(ゲーオア・ブランデス)や美学(ヨハネス・フォルケルト)にも混乱を生む要因があり、
それを受け取った日本では実に錯雑とした動きが生じたのでした。
これらのことは『「日本文学」の成立』にも、『入門』にもまとめてあります。
なお、これは、感情移入美学の受容以前に生じたことです。
これについては、『「死者の書』の謎』に、はじめてはっきり書きました。
エドゥアルト・フォン・ハルトマン『美の哲学』(1887) は、
対象から受ける印象と対象への主観の投影の両面を論じています。鴎外訳でも、それは明確です。
文芸作品では、国木田独歩「忘れえぬ人びと」あたりから、その受容が見られます。
フォン・ハルトマンの場合は、「無意識の普遍性」の理論に支えられているので、
対象に対する個々の主観(意識の在り方)を二分してしまう。意識の実際は、そんなに単純に二分できない。
ヨハネス・フォルケルト『美学上の時事問題』(?外訳『審美新説』)の場合は、
対象への「共感」(emphasis)の問題が、
ヘーゲル『美学講義』中でいう対象とのあいだに醸し出される「雰囲気」や「情景」に寄せて考えられている。
感情をもつはずのない嵐を荒々しいと感じるような「情感」「情景」のことです。いつでも、どこの誰にでも起こること。
シューマンの組曲『子供の情景』は、誰が翻訳したのか、調べていませんが、子供の遊びなどの「雰囲気」を醸しだす作曲です。
一切の主観を消して、それに包まれていると感じれば、世界と一体感が生じる。
その意味で、普遍性を獲得した気になる。「気分象徴主義」「情緒象徴主義」といってよい。
フォルケルトは、デカダンスも含めて、それをも「自然主義」に入れ、「自然主義」の概念を、
ゲーオア・ブランデスより拡張している。
これは、テオドール・リップスが相手に身を寄せて相手の立場を感受する「共感」をいう「感情移入」とは、
まったく方向がちがう。
リップスの場合は、神に近づく普遍性の獲得に向けた「人格の向上」とセットになっている。
阿部次郎らが唱えた、いわゆる「人格主義」です。
このあたり、日本人の個々の受け取り方、その概念操作には、まだまだ取り組む余地がありそうです。
〇このようにして、基礎概念の組み換えを対象化することにより、
日本文芸史の新しいシーンが次つぎに拓けてゆきます。古代から今日まで。
個々の作品、個々の作家の仕事は、当代の規範にしたがい、また抗うことによってなされます。
それらは、文芸の歴史のなかでこそ生まれ、また、文芸史をつくっています。
その価値の解明は、文芸史の書き換え、再編と相互に進行します。部分と全体の関係です。
部分が変われば全体も変わる。全体が変われば、全体における個々の意味が変わる。
人は古代から聞き手や読み手に向けて表現してきたのです。文芸表現の歴史を忘れた文学研究などありえません。
作者の情動や認識に還元してすます批評は、倒錯です。表現を問題にする意味がない。
「文学」概念の組み換えを無視して、
自分の頭に刷り込まれた概念やスキームによって対象を裁断する批評は、批評の名にも研究の名にも値しません。
もっと文芸史研究を!!! もっと評価史研究を!!!
実証も論証も、仮説を実証し、論証することです。妥当性、蓋然性を高めてゆくことです。
新しい資料の発見も、その価値を明らかにしなければ、無意味に終わります。
「努力の方向」を間違えば、徒労に終わります。
2、 もう一つ。日本の古代の「自然」観について。
ヤマトコトバに「自然に相当する観念」がないという俗見が、依然として流布しているようです。
これは、近代言語ナショナリズムを本居宣長流の「国学」によって受容した人びとの
「国語」学が流布した倒錯した考えです。
「自然」は、「自ずから然り」という意味で、『万葉集』にも見られます。
また「天地」の語も、「天地自然」、すなわち「天地のあるがまま」を意味する「天然」の語も、
古代から用いられています。『凌雲集』に出てきます。
万葉仮名を書けた知識層が、漢語の概念を知らないはずはありません。
漢語の意味を知っている彼らが、漢語を「訓述」したのです。
「訓述」は、『古事記』序文で太安万侶が用いている語です。
ところが、いわばヤマトコトバ主義による「国語学」の見解が、
これらは漢語の概念だとして、古代日本人の観念から排除するような見解を述べてきたのです。
日本の知識層は古代から江戸時代末まで、中国語と日本語のバイ・リテラシーでした。
江戸中後期には民衆のあいだにも、漢詩・漢文(中国語)のリテラシーが拡がります。
荻生徂徠の学統が一世を風靡したからです。
明治期からのちには、これに最低限、英語が加わり、トリ・リテラシーになります。
(なお、江村北海は、漢文の初学者向けのハウトゥーもののなかで、
「看読」は精読に適しているといっています。「黙読」のことです。
「音読」と「黙読」の区別は、声帯の震えの程度によ.るもので、
精確には二分できません。また「黙読」にも、音声映像は伴います。
この原理的なことがわかっていれば、
黙読の増加と「言文一致」体の普及が連動しているなどという説(前田愛)は立ちようがありません。
それゆえ、黙読の普及は、マナーの普及と速読を必要とする層の拡大によるものだ
と別次元の理由を明らかにしたのです。念のため。
そもそも、江戸時代から庶民の読む笑話など、地の文に、口語体(「する」「した」体、用言終止めや「た」止め)
が用いられていました。
それゆえ、文語文(訓読体から漢語と返り読みを減らした「明治期普通文」。硬軟あるが、「なり」「たり」止め)
を習得していない小学生の方が口語体の習得が容易だったのです。
知識層がメディアの規範に従わずに自由に書けば、
日露戦争後には口語体が圧倒的になる。
新聞は1920年ころの申し合わせ。公用文は第二次世界大戦後。
これは(『日本語の常識を問う』(平凡社新書)と『日記でよむ日本文化史』〔平凡社新書〕にもまとめてあります。
「明治期の言文一致運動は、ヨーロッパの俗語革命に匹敵する意味があった」とは、まったくの俗説です。
ヨーロッパの俗語革命とは、知識層のラテン語共同体に代えて、
国民が自国語を「標準語」で読み書きすることへの転換です。
古代から中国語と日本語のバイ・リテラシーだった日本に、
俗語革命に匹敵することが起こるはずはありません。
むしろ、逆に、明治期に中学生以上の国語の科目のなかに漢文を加えました。
いまでも国語の古典のなかに漢文が入っています。
しかし、だからといって、古典中国語を日本語だとは誰も思いません。別の言語であることは明白です。
国家の言語政策と言語の性格のちがいは、まったく別次元の問題です。
それらと標準語の策定と普及の問題も、次元がちがう。
問題にすべきことの次元を切りわけられずに、次元を混同した議論がいつまでも行われているのです。
とりわけ第二次世界大戦後の言語ナショナリズムの浸透が、
日本人の言語活動、言語作品の歴史をすっかり歪めてしまったのです。
なお、戦後の国語学者でも、築島裕氏らは、日本における漢文に精通していました。
まともな学者もかなりいたのです。
その中でも、さまざまに対立する見解があった。
そのような水準における対立をよく整理してゆけば、問題は解決してゆける。
それにも届かないような俗論にかまけていては、何も解決できないと思います。
学説をつくつている問題設定、概念とその操作、スキーム、価値観、
それらをつかむ努力を重ねることで拓けてゆくことが多いはずです。
〇 日本人の自然観については、今年5月第3土曜日、比較文学会例会(東京工業大学)で、
「柳父章『自然とNATURE』の功罪を問う」ことからはじめて、
昭和戦前・戦中期まで、文部省用語が「天然」だったことなど、
20世紀の転換期における「自然」概念の定着とその内実が決して一様でなかったことを話します。
また、いつから、「日本人は自然を愛する民族」といわれるようになったかについて、
その背景とともに明らかにします。請う、ご期待。
(2018/02/14)
〇『産経新聞』(大阪本社2018/02/14)夕刊9面、特集「浪花女を読み直す」(石野伸子記者)、
「梶井基次郎『檸檬』伝説」(下) に小コメント。
(2018/01/11)
〇またまた訂正。 『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』につき、
『文学界』昭和十二年三月号、川上喜久子「光仄かなり」についての記述。
このhp(2016/10/07)記事、および誤植訂正表の、これまでの訂正箇所を撤回し、次の一文を追加します。
p.215 7行目追加 (実際は「分割還付」の許可が降りており、全面切り取りすれば刊行は可能だった)。
本日、浅岡邦雄さんよりメールでお知らせがありました。
『出版警察報』第101号に次のようにあるそうです。
文学界 第4巻2号 1月13日禁止
1月22日許可
「本書の内容は軍隊生活を誹謗し反軍思想を鼓吹する
ものなるが、「光仄かなり」全文を芟除すれば支障なきを
以て分割還付許可せらる。」
実際は、発売禁止命令を受け、分割還付を申請し、許可が降りていた。しかし、
「光仄かなり」が70頁もあるため、全面切り取りを行うと雑誌の体裁をなさないためでした。
「屑屋にまわした」という小林秀雄表現からは、とても、上の手続きがとられていたことは読み取れません。
本当に戦時期の「発禁」問題は悩ましいこと限りなしです。
(2018/01/03)
〇宇治市主催、紫式部文学賞について、コメントが『京都新聞』(01/03朝刊26面)に。
(2017/12/21)
〇 『「死者の書」の謎』の紹介記事が『出版ニュース』2017/12/下旬号、B00k Guide欄に。
「折口信夫研究の新たな境地を示した労作」
(2017/12/17)
〇『「死者の書」の謎』の安藤礼二さんの書評、『東京新聞』(2017/12/17 朝刊)に。
安藤さん、ありがとう。
(2017/12/15)
〇『産経新聞』大阪,2017/12/13夕刊7面、
特集「浪花女を読み直す」(石野伸子記者)、
梶井基次郎「檸檬の伝説」に、コメントが掲載されました。
(2017/12/08)
〇 『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』訂正表に追加しました。
p.33 室生犀星の『死者の書』評に関するところ、その他です。
〇なお、『「死者の書」の謎』執筆中に、宮沢賢治がチベットの信仰に詳しかったのは、
鳥居龍蔵のシャマニズム関連文献にふれていたにちがいないと推察するにいたりました。
(2017/12/04)
〇 『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』中、事実誤認を三か所、指摘するお手紙を
安藤礼二さんよりいただきました。 安藤さんありがとう。
〇p.128 l.10 「反省会」は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で高楠順次郎ら、
学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年に組織したものです。
〇p.189 l.6 若き鈴木大拙のスウェーデンボリの翻訳は、「仏教書」とはいえません。
〇p.185 l.11折口信夫の卒業論文にケーラスの名前は見えません。
お詫びして訂正いたします。鈴木貞美hp 「誤記誤植訂正」頁トップを参照してください。
(2017/11/16)
北京・清華大学の集中講義より帰国しました。
(2017/10/20)
● 『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』(作品社/279頁)が10月下旬書店に並びます。
釈迢空『死者の書』は、国際的にも比類なき日本20世紀文芸の達成、ジェイムズ・ジョイスを凌ぐ
「ジャンルを超えた総合小説」である。その由来を彼の短歌や詩、また文学論から解き明かす。
折口信夫は神秘主義者でも宗教家でもない。日本の「神道」を近代天皇制はもとより、古代国家
からも解放しようとした稀有な人文主義者である。その苦闘と抵抗の軌跡を掘り起こし、『死者の
書』の虚構に秘められた謎を解きほぐす。
(2017/10/19) 論文二本が刊行されました。
〇「近現代と往還しつつ、東アジア古代の文化交流史を問い直す」(70枚/400字)が
蔵中しのぶ編『古代の文化圏とネットワーク』(古代文学と隣接諸学)竹林舎に。
〇「スティーヴン・ドッド『青春のことども: 梶井基次郎の時代の生と死』に寄せて―
日本近現代文芸文化史研究を新たなステージへ」(100枚/400字)が
『日本研究』第56集に。
(2017/10/1)
〇東京・日仏会館で文化講座シンポジウム「仏文系作家たちによる戦後文学の出発」が開催さ
れました。わたしは「中村真一郎―絶対平和主義の形成」について話しました。
(2017/9/16) 吉林大学の集中講義より帰りました。
〇今、取り組んでいる「日本人の自然観」の一環として、公害問題をめぐる講義をしてきました。
江戸時代後期の公害問題や日本科学史が1970年代に大きな曲がり角を迎えたことなどを
話してきました。
(08/04)
Recent works 補綴
(2017/07/25)
〇『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』は作品社から10月刊行予定です。
(2017/07/15)
「閑山子こと川平敏文のブログ」2017/2/2 に、鈴木貞美hp 2016/10/18 について、リアクションが出ていました。
2017/7/18)に、日文研・倉本班(説話と歴史資料のあいだ)で、「『説話』の多様性―文学・歴文化史」というタイトルで報告をしたときに、
参加者の方から教えてもらいました。
川平敏文『徒然草の十七世紀―近世文芸思潮の形成』)について、
鈴木貞美『日記と随筆―ジャンル概念の日本史』中に記したことをめぐってのものです。
以下、よ
(2017/05/19)
〇recent lectures, recent articlesに追加。
(2017/04/30)
〇「トマス・ハーディー『テス』−自然主義から象徴主義へ」(15枚/400字)を
井上隆史責任編集『アウリオン叢書18 世界の長篇小説』
(白百合女子大学言語・文学研究センター)に寄稿しました。
(2017/01/07)
〇『読売新聞』2017/01/06第2面、社会のコトバ「日記」(尾崎真理子編集委員)が、
『日記で読む日本文化史』(平凡社新書)にふれてくれました。
(2016/12/16)
〇「近現代と往還しつつ、東アジア古代の文化交流史を問い直す」(70枚/400字) を
「古代文学と隣接諸学」シリーズ『古代の文化圏とネットワーク』(竹林舎, 2017予定)に寄稿しました。
(2016/12/13)
〇「ステファン・ドッド『青春のことども: 梶井基次郎の時代の生と死』に寄せて―日本近現代文学研究を新たなステージへ」
(100枚/400字)を『日本研究』No.48(2017年10月刊行予定)に投稿。
(2016/11/26)
〇『出版ニュース』2017年1月初旬・中旬号に「今年の執筆予定」を投稿。
(2016/11/13)
〇『「死者の書」―釈迢空とその時代』(2017年春刊行予定)を執筆中。
(2016/10/30)
〇著作一覧(2013) 以降に、
“日記文学”与”日記”―以”日本文学”次級分類為, |
王辰野・魏大海訳,
李征・譚少華・魏大海編『日本研究; 東京・上海・広州―漂白的身体与文本』(2016/8)を加えました。
「日本文学」概念の下位分類を考察した論考の第4ヴァージョンにあたるものです。
『「日記」と随筆―ジャンル概念の日本史』(臨川書店.2016/5)が第5ヴァージョンですが、
『日記で読む日本文化史』(平凡社新書,2016/9)で、「日記」の語源について新して説を出しました。
そこでは、王充『論衡』について、やや過激な解釈をしていますが、
これは、かつて学んだわたしと同世代の中国知識人のものが、そのまま出てしまったようです。
王充『論衡』については、機会を見て表現を改めるつもりです。
(2016/10/24)
〇missprint 訂正 『日記で読む日本文化史』に追加。
(2016/10/22)
〇インド・ネルー大学大学院のA.P.さんより、明治期知識人のキリスト教受容について、質問です。
〔質問〕 キリスト教は明治中後期にかけて、日本の若い知識層を強く引きつけたが、その後、
日本にはキリスト教は根づかなかった。それぞれの理由を教えてください。
〔回答〕 pdf
(2016/10/19)
10/11付け記事をpdfとともに若干補填。
(2016/10/15)
〇インド・ネルー大学大学院のA.P.さんより、北村透谷「 各人心宮内の秘宮」(1892)について
二つの質問です。
その一つは、今日の有名な日本語翻訳者の一人で、透谷研究者でもあるFrancis Mathy氏の
「心宮内の秘宮」の翻訳について。もう一つは同じく、それについての野山嘉正氏の解釈について。
質問と回答をまとめてアップします。 PDF
(2016/10/11)
〇川平敏文さんのブログへのお答え
閑山子こと川平敏文さんのブログ〈2016/9/12(月) 午後 4:22〉に、
鈴木の『日記と随筆―ジャンル概念の日本史』臨川書店、2016、以下『日記と随筆』)
について、コメントが記されていると、人から教えられて読んでみました。
『日記と随筆』で、川平さんの『徒然草の十七世紀―近世文芸思潮の形成』
(以下『徒然草の十七世紀』)にふれた個所へのリアクションでした。
『日記と随筆』の問題設定には「共感できる」とあるのは大変ありがたく、
一人でも、そういう人が増えることを願っています。
『日記と随筆』が「一種の文学史」の記述で、それが骨格を分かりにくくしている
というご指摘は、そのとおりだと思います。
われわれの頭に刷り込まれている「日記」「日記文学」「随筆」「批評」「説話」など
のジャンル概念が、いつ、どのようにしてできたか、を明らかにすること、そして、
そのように、後に括られてしまった言語作品が、では、成立した当時においては、
何だったのか、その性格の解明を進めることが肝心と考え、手探りしてきました。
『日記と随筆』で、前近代の古典のジャンル概念全般について、はじめて論じる機会
を得たのですが、まだ手探りの段階にとどまっていることを率直に認めます。
その展開の仕方だけでなく、内容においても。
「日記」の語源に関する考察を『日記で読む日本文化史』(平凡社新書、2016)
では訂正しました。
『日記と随筆』では、玉井幸助『日記文学の研究』(1944)に引っ張られたところが、
まだ残っていました。
以下、具体的には長くなりますので、リンクを張ります。 pdf?
また、川平さんも「パラダイム」の語を用いています。ある論考(未発表)の一部で、
「パラダイム・シフト」論と「概念編制史」研究とのちがいを明確にしてあります。
その部分を抜き出して、リンクを張ります。 pdff?
(2016/10/09)
〇10/07の本欄記述につき、浅岡邦雄さんから、丁寧なアドヴァイスをいただきました。
『文学界』昭和十二年三月号、川上喜久子「光仄かなり」の禁止理由は、安寧処分で、
「・・・全般ニ渉リ反軍反戦的思想ヲ宣伝スルモノト認メ禁止」と『出版警察報』第101号
にあるそうです。
差押状況については『出版警察報』第102号に、警視庁管下の「文学界」五〇〇〇部
発行が六割一分三厘の好成績を収めて居る。(中略)前記五割の成績も帰する処は発行部
数大なる「文学界」の執行によつて描き出された数字」とあるそうです。
「文学界」の差押部数は、発行部数5000部中3065部。当然ながら、東京が圧倒的に多く、
1682部、最低は兵庫県のゼロ、とも。
「以上のことから、小林秀雄の言を信じてはいけないことがお分かりいただけますでしょうか。
小林の書いていることなど蹴飛ばして、『出版警察報』をご覧になると良かったですね」と?ら
れました。 肝に銘じなくてはいけません。
(2016/10/07)
〇著作正誤表をrenewalしました。 pdf
〇『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』(筑摩新書、2016, p.215)に、
お知らせしておいた方がよいと思われるミスが見つかりました。
『文学界』昭和十二年三月号の小林秀雄「編集後記」が、前号掲載の川上喜久子
「光仄かなり」が全面削除を命じられたことに「発禁」という語を用いている、という意
味のことを書きました。が、これはわたしの失策です。小林秀雄の原文は、次のよう
なものです。
二月号は川上喜久子氏の「光仄かなり」が原因で発売禁止となつた。切取還附
を受けて発売する案も実行しかけたが、何しろ七十頁もある力作で、削除した
上では売り物になりさうもないので、残念乍ら屑屋に廻した。
編輯の不注意から読者に御迷惑を掛けて甚だ相済まぬ。
これは、法律用語でいえば、「発売頒布禁止」を受け、「分割還付」の申請をしよう
としたが、やめたということです。申請し、許可されれば、作品掲載頁を切り取り、雑誌を
市場に流せるが、雑誌の体をなさないので、諦めたという意味です。
ひとつだけひっかかるのは、「屑屋に廻した」とあることです。まだ、流通にのせておら
ず、警察の差し押さえにまでは至っていない段階だったと考えられます。
実は、わたしは、そこで、変に気をまわして、作品全編削除命令が出たので、取次に
まわさなかった、と想像してしまったのでした。小林のいう「切り取り還付」は、やはり
「分割還付」の一般向けの言い換えと判断すべきでしょう。お詫びして訂正します。
(2018/01/11) 追補。 上記につき、撤回します。実際は、
「発売頒布禁止」を受け、「分割還付」の申請をし、許可が降りた。
そこで、全面削除して、市場に出す用意にかかった。だが、それは
すぐに断念した。という成り行きだったことが、わかりました。
わたしは、この件につき、以前、「全面削除」の命令を受けたという記事
を読んだ記憶があるように思っていました。あるとすれば、河上徹太郎
の回想にちがいないのですが、執筆時に『河上徹太郎全集』を探したが
見つからなかった。もしかすると、どこかから出てくるかもしれません。(以上)
最近、検閲についての本を何冊か読んでいて、いろいろ気になることが出てきたので、
浅岡邦雄さんに質問し、丁寧に答えていただき、自分がこれまでに検閲について書
いてきたことに疑心暗鬼になって、ざっと一渡りチェックしているうちに、最近の著作にミ
スを見つけたという次第です。誤記誤植訂正表には記入済みです。
昭和二年『改造』九月号の中里介山『夢殿』第四回について、わたしの旧稿は「掲載
禁止」としていました。これは周辺資料に「内務省命令により掲載禁止処分を受け、全
文削除(実際には印刷された雑誌からの切取処分)」とあったことによるものです。
この例が記憶にあり、川上喜久子「光仄かなり」の『文学界』掲載号も同じケースと
考えてしまったらしい。そんな気もします。
なお、浅岡さんは、部分的削除の命令も大正期のうちから、あることも教えてくれ
ました。いわゆる「内閲」の実態についても、面倒なことがいろいろあるようです。わたし
は政策による検閲基準の変化に神経を使ってきましたが、制度とその運用についても、
よく気を配らないといけない。何とも悩ましいことです。検閲については、浅岡さんの決
定版に期待しています。
(2016/10/05)
〇recent articles に、2014年吉林大学外国語学院国際研究集会での基調報告
「日本文化の近代化のしくみと『近代の超克』―
ノーベル文学賞作家二人の受賞講演を手がかりに」を追加。
(2019/09/27)
○北京の清華大学での集中講義から戻りました。
またいくつか収穫がありました。王成先生、王中忱先生ありがとう。
(2019/09/19)
○北京の清華大学に集中講義に出発します。
(2016/09/18)
○9月17日、長春の吉林大学での集中講義より深夜に帰宅しました。
公開講演会「日本の都市文化」をふくめ、集中講義では、日本文化史を古代から今
日まで、概説。
日本の東北大学とのナショナリズムをめぐる共同シンポジウム、東北アジアの言語
文化をめぐる例年の国際シンポジウムを含め、実に収穫の多い3週間でした。
周異夫外国語学院長をはじめ、みなさま、ありがとう。
東北大学との共同シンポジウムでは、「満洲国」建国と経営にはたした蝋山政道の
役割について報告を、国際シンポジウムでは、日本の「文学」とその下位概念について
基調報告しました。
前者は、『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』(筑摩選書)に発表したも
の。後者では『日記で読む日本文化史』(平凡社新書)までの最新の成果をまとめまし
た。
○1938年12月の近衛文麿声明を受けた汪精衛「東亜と中国」(『中央公論』1939年10
月号)の原文が中国でも発表されていたことが確認できました。遅くとも、『大亜洲主義
論文集』(中国国民党中央宣伝部、 1940)には掲載されています。むろん、蒋介石の反
論も掲載されています。
また、大内隆雄が検挙以前に『新天地』に寄稿していることを日本の一橋大学から
帰国した院生の呉丹さんに教えてもらいました。当時の日満における左翼の事情を
よく考えれば、彼の「転向」をめぐる議論に決着がつくと思います。
(2018/09/01)
〇『聖教新聞』(08/27)に『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』の書評が出
ました。こういう読み方をしてくださる方が少なくなった気がします。 感謝!!! pdf
(2016/08/26)
○8月29日〜9月17日まで長春の吉林大学に集中講義と国際シンポジウムに行き
ます。
○『日記で読む日本文化史』(平凡社新書)は2016/9/17iに刊行されます。
日本の「日記」文化史を概括する一書。
(2016/07/22)
〇『鴨長明―自由のこころ』の短評が『日刊ゲンダイ』7/7, 『朝日新聞』7/17に。
(2016/07/02)
●『宮沢賢治―氾濫する生命』の誤記を訂正します。
栗原敦さんのご指摘によるものです。『賢治研究』(宮沢賢治研究会)128号
栗原さんありがとう。 pdf
(2016/07/01)
〇『鴨長明―自由のこころ』の短評が出ました。読売新聞2016/6/26
「読み応え十分の新・長明論だ」。評者は、青木千恵さん。ありがとう。
(2016/06/28)
〇『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』の書評が出ました。
評者は、川村湊さん。『公明新聞』 2016年6月27日付第4面。pdf
ありがとう。
〇誤植訂正表
●『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』筑摩選書、
および『鴨長明―自由のこころ』ちくま新書 二著共通 pdf
〇『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』及び『「文藝春秋」の戦争―戦前期リベラリズムの帰趨』
を読み、日本の政策の変遷は理解できたと思うが、国家制度はどうなのか(とくにファシズムとの
関連)という質問が、国立大学博士過程後期の院生から寄せられました。整理して書いてはいない
ので、お答えしておきます。
日本近現代の国家制度 pdf
(2016/06/24 )
〇『日本の「日記」文化』(平凡社新書、2016/10予定)を脱稿しました。
「日記」の語源から、もう一度、洗い直し、古代から今日まで、日本の「日記」概念とスタイルの歴史的変化を整理し直しました。
今日の視点に立つ「日記」の読み方論。何でもそうですが、大切なのは、対象の性格をわきまえて読むことでしょう。
(2016/06/14)
○『鴨長明―自由のこころ』につき、中世史の専門家、本郷和人さんが、これ以上ないほどの好意的な書評を書いてくれました。
『サンデー毎日』2016/6/8号。 感謝感激です。ありがとう!!! pdf
(2016/06/06)
○「リベラリストたちは、なぜ、戦ったのか」 『ちくま』2016/6 pdf
右上段後から7行目 『NLF』 ⇒ 『NRF』
○新聞記事コメント、アップ・ロードします。
2016/05/23 中村真一郎 パリの休日 京都新聞夕刊1面 pdf
(2016/05/12)
*『文学』掲載の旧稿2点、別々にですが、問い合わせがあり、アップ・ロードします。
容量の都合で、どちらも2分割しました。
〇 「堀辰雄『芥川龍之介論』をめぐって」
『文学』特集「堀辰雄」2013/9,10月号pp.139-159 pdf(1)
pdf(2)
堀辰雄が芥川龍之介から受けついだもの、発展させた方向を明らかにする。
昭和モダニズムの大正文壇思潮からの連続性と断絶の一端を示す論考。
〇「野上豊一郎の『創作』的翻訳論をめぐって―翻訳の文化史へ」
『文学』「翻訳の創造力」2012/7・8月号pp.150-169 pdf(1)
pdf(2)
野上豊一郎の翻訳論は、最近、英語圏で出されている文化的差異を際立たせ
る翻訳戦略論をはるかに先取りしていた。その内実を検討する。
*『日記と随筆ージャンル概念の日本史』臨川書店「日記で読む日本史19」(p.294)が
5月12 日に書店に並びます。
「日記」も「随筆」も江戸時代まで、ひとつのジャンル概念としては成立していなかっ
た。「平安女流日記文学」は、「修養日記」と「私小説」「心境小説」の隆盛を背景にし
て、1920年代を通じて新たにつくられたジャンル概念、「随筆」は西洋近代のエッセ
イを受け止めながら、1930年代に「雑文」の代名詞のようにして用いられるようにな
ったもの。「説話」「批評」を含め、古代からのジャンル概念を辿りなおし、われわれの
思考を縛っている近代的「文学」「芸術」概念を問いなおす。
*『鴨長明―自由のこころ』(ちくま新書)(p.256)が5月10日に刊行されます。
歴史学者、五味文彦氏による周辺史料の訂正解読を踏まえ、鴨長明はなぜ、後鳥羽
院和歌所から遁走したのかをはじめ、その生涯にまつわる謎を解き、長明歿後の伝
説、評価史を再検討、その著作『無名抄』方丈記』『発心集』を総合的に論じる。
*『「文藝春秋」の戦争ー戦前期リベラリズムの帰趨』筑摩選書(p.382)が4月 15 日に
刊行されました。
旧著『「文藝春秋」とアジア太平洋戦争』(2010)に新史料と新知見を加えて大幅に増
訂。菊池寛と小林秀雄ら『文学界』グループが、なぜ、あの戦争に深くコミットしていっ
たのか。時々刻々変化する国際情勢と政策の進展、それに対する自由主義者たちの
言論の変遷を解明する。 事後的につくられた「大東亜戦争史観」、戦後に形成された
「東京裁判史観」をともに批判し、戦後民主主義を支えた歴史観を再考するための一
書。いま、自由主義、民主主義、立憲主義の内実が問われている。
*インド・ネルー大学での集中講義より戻りました。いろいろと収穫の多い充実した一か月でした。
みなさんありがとう。
2/26 「日本文学研究のキーワード―文学、芸術、日本文学、言文一致」
ハイデラバード英語外国語大学(EFLU)
2/18 「日本文学―自然主義から象徴主義へ」
ネルー大学・デリー大学合同講演会
2/3 2/8 2/10 2/17 2/22 2/24 ネルー大学(JNU)日本語日本文学科大学院 集中講義
(2016/01/25)
*台湾輔仁大外国語教育のワークショップから帰りました。
日本からの方をふくめ、先生方、院生のみまさんからもさまざまな収穫をえることができました。
*2016/01/22〜23 台湾輔仁大學教育部 2016 年度基礎言語及び多文化能力育成プロジェク
ト第二外国語教師ワークショップで講演予定の論文です。
(1) 「明治期『言文一致』神話を掘り下げる」 pdf
(2)「パラダイム・シフト論から概念体系の再編制史の研究へ―
日本近現代における古典ジャンルの発明をめぐって」 pdf
(2016/01/05)
*講演録「日本近現代におけるシルク・ロード―国際戦略と学術の動き」が全国大学国語国
文学会機関誌『文学・語学』第 214 号(pp58〜73)に掲載されました。
「シルク・ロード」をユネスコの世界遺産に登録させたプロジエクトの推進者は、あの
エリセ―エフの息子さんでした。そして、いつ、なぜ、誰によってよって「シルク・ロー
ド」と名づけられたのか、を問うなら、18 世紀ドイツにおけるシノワズリーの産物という
ことがわかります。今日研究の進展は、それは「シルク」よりも、紙や仏教の、しかも、
「道」ではなく、バザールのネット・ワークとしてとらえるべきことを告げています。
19 世紀後期からの中央アジアの探検は、20 世紀には国際情勢と強く結びついた
もので、日本との関係を探れば、実にさまざまなことからが浮かんできます。
文芸においては、宮沢賢治のチベットの関心、また、井上靖の「シルク・ロード」への
関心の芽生えを促したも背景からも興味深い問題が出てきます。
そして、今日の敦煌遺跡の調査は、井上靖の戦後の小説「敦煌」を「歴史離れ」とも
言えないところに追いこんでいます。なぜなら、遺跡を埋めたのは、西夏にちがい
ないからです。
そして、西夏との戦に負けた責任をとって辞した北宋の将軍が沈括で、彼の『夢
蹊筆談』は、そののちの仕事です。今日、中国の技術史を伝える「随筆」とされて
いますが、しかし、随筆の嚆矢は南宋の洪邁の『容斎随筆』であることは定説です。
沈括『夢蹊筆談』と洪邁『容斎随筆』は、題材の範囲は異なるとはいえ、同じく撰述
書です。では、何がちがうか。
こうして「シルク・ロード」を巡る旅の途上に、歴史とは何か、随筆とは何か、という
大きな問いが浮上してきます。
* 『「日記」と「随筆」―記述ジャンルの日本史』(臨川書店, 2016/4 予定)再校完了しま
した。
*(12/15)
『鴨長明―自由のこころ』(ちくま新書, 2016 予定) 第 2 稿を完成しました (330 枚
/400 字)
*(12/01) ◎江戸時代、漢詩文の音読と黙読について
吉林大学での集中講義中、ある先生との質疑応答を紹介しておきます。
〔質問〕「江戸時代には、町人層にも漢詩文の学習が及んでいたこと、それとは別に、前
田愛『近代読者の成立』の根本理念、「音読から黙読へ」説がまったくの誤りだと
いうことも, 具体的な事例をあげた説明でよくわかったが、漢文でも黙読はあった
のか。日本に留学したとき、日本では素読が重んじられたと習ったが」
〔回答〕江戸時代の中期ころに町人層に漢詩文の学習が盛んになっていた例証としては、
江村北海の漢学入門の手引書『授業編』全一〇巻(一七八三)をあげることができ
ます。その第二巻に「読書三則」という章があり、そこに、漢文の読書には「音読」と
「黙読」のどちらが適しているか、という質問に答えて、どちらも一長一短があると答
えているところがあります。黙読には「看読」という語を用いて, 「精読」に適していると
述べています。
なお、これは、明治以前の文例を調べるとき、最初にあたってみるべきものとして
紹介した『古事類苑』の「文学」部「読書」篇「読書法」に「黙読」の見出しのもとに引
かれています。日文研データベースで簡単に確かめられます。pdf
漢文の初学者には長く素読が重んじられたのは確かですが、一九世紀末には
幼児には幼児に適した教育をという理念が浸透しますので、新旧中間層の子供でも、
高等小学校から漢文書き下し体の学習に入り、漢文学習は中学校からになります。
そして、日清戦争後、暗誦と作文が必須でなくなるので、そのあとの世代からは、
漢詩文を読めても、書けない人が多くなります。
*(11/16)『宮沢賢治―氾濫する生命』書評が『図書新聞』11 月 21 日号に掲載されました。
評者は澤村修治さん。感謝!!! pdf
*(11/14) 11 月 13 日深夜に吉林大学外国語学院での集中講義より戻りました。
10 月、内蒙古大学より、11 月、吉林大学より客員教授を拝命いたしました。
*(10/15)済州大学文理統合国際シンポより戻りました。
とても興味深い報告の並んだシンポジウムでした。
* 『「日記」と「随筆」―記述ジャンルの日本史』(臨川書店, 2016/4 予定)を脱稿。
*旧知の吉林大学外国語研究院院長・周異夫氏より、次の書物の提供を受けました。
吉林市の特別委員会編『鉄証如山』全 3 巻(2014)
吉林省档案館が所蔵していた旧「満洲国」の関東憲兵隊が焼却し損ねた史料を整
理し、その写真版と中国語訳を掲載するもの。以下、簡単に紹介します。
『鉄証如山―吉林省新発掘日本侵華档案研究』庄厳主編(吉林出版集団責任公司)
リードに「国家社会科学基金特別委託重大項目」とある。すべて B4 判。
第一巻 2014 年 4 月 729 頁、定価 190 元
第二巻 2014 年 7 月 641 頁、定価 170 元
第三巻 2014 年 7 月 490 頁、定価 130 元
○第一巻には、南京各地区憲兵隊による「治安回復」状況報告の通牒および慰安婦関
連書類(1938 年 3 月)、日本軍の暴行や軍隊内の犯罪などの報告、「満洲国」関連の
移民、労工、抗日運動対策、また対米英戦争期の捕虜関連史料をおさめ、第二、三
巻には、関東憲兵隊司令部による「郵政検閲月報」記事が掲載されている。
○多くは焼け焦げており、関東軍憲兵隊が退却の際に焼き払おうとしたが、焼け残っ
たものを中国軍側(国共のどちらか)が押さえ、档案館に保管していたものと推測され
る。史料の中国語訳に携わった周異夫氏は、未整理のものが多数残されているとい
う。
○『鉄証如山』第一巻第一部には、巻頭に華中派遣軍兵隊司令官・大木繁の署名入り
通牒(1938/2/28 付)を列挙、日本軍の攻略以前、南京には約百万人の一般住民がいた
が、一九三八年二月までに、避難民のうち、三三万五千人が帰ったことを告げる憲
兵隊史料(五四頁)、また日本軍の「野獣」のごとき行為をイギリス宣教師が英国新聞
に寄稿したことをドイツ人が天津のイギリス租界に住む中国人に告げる手紙などの
抜粋もある(一一〇頁)。
○そのなかに、『大阪毎日新聞 (奈良版) 』一九三七年一二月二三掲載の「南京総攻撃
観戦記 光本本社特派員」?の写真版が収録されている(一〇二頁)。末尾に
「完」と
あり、三回連載記事と知れる。そのごく一部を抜く。
「かくして城内の掃討も十四日午後五時一まず終つたので○○本部では南京総攻
撃以来の敵の死体計算を始めた/その結果大体城外攻撃三日間に倒した数はなんと
七万、城内掃討で一万五千、ほかに生捕りにしていまなほ処置に困つてゐるものが
各部隊を合して一万二千である。」
そのあとに分捕った兵器類の数がつづく。これは、わたしがこれまでに見た日本の
新聞の関係記事の内、最も遅いもの。日本軍が数えた遺体数としては最も精確な報
道であろう。当時、日本で知られていた数字に近いが、掃討は年末まで行われるこ
とも、この記事は伝えている。そして南京では、かなりの捕虜の虐殺も知られてい
る。 (中国側公式の数字「30 万人」は、上海事変の日本軍空爆による死者から後遺
症による死者数を積算したもので、数え方がちがう。わたしは擦り合わせ可能と考
えている)
○慰安婦関連では、華中各地の兵員概数、慰安女婦の数、慰安女婦一人に対する兵員
数が表にされており、たとえば、江蘇省西南部の都市、鎮江には一〇九名の慰安女
婦がおり、本旬中(一九三八年二月中旬と推定される)に「慰安所ヲ利用シタ将兵、五
七三四名アリ」という記録も見える(一一九頁)。
○軍人の犯罪記録のなかには、任務遂行中に抜け出して慰安所に遊びに行った兵隊の
記事もある。
○第二巻には、一九三九年五〜九月、一二月の「郵政検閲月報」、約四五〇件の記事
が月毎に掲載されている。吉林省在住者宛て、および在住者が発信した郵便の検閲
記録で、没収ないし抹消処分を受けた部分が抜き書きされている(漢字カタカナ、濁
点省略のタイプ打ち)。
その範囲は、関東軍兵士(部隊では上官の検閲を受けるため、街で投函したも
の)、日
本人在住者、中国人、朝鮮人、ロシア人、外部からの通信にはアメリカ人宣教師な
どのものも交じる。ごく一部を抜く。ただし、固有名詞の一部を伏せる。
「六月八日、奉天工藤部隊 木村××(男)より 石川県金沢市醒ケ井町 木村××
(女)宛
国境方面ノ連中ハ露西亜人ヲ交代テ娘ト言ハス強姦モ片端カラ毎日ノ如ク犯シテ居
マス此方面テハ満人女ヲ片端カラ連中ハ地理ト言葉カ判リ毎日昼夜ノ別ナク強姦
ヲシテイマス
第一線詞支那大陸ノ兵隊モ北支、南支、中支ノ方カラ来タ特務機関ノ連中カ語ル
処ニ依レハ戦線ノ兵隊モ敵部落ノ占領ト同時ニ女探シ血眼トノコトテス(略) 押収」
「六月二〇日(哈爾浜)、横浜市中区南太田町一ノ一 久納××(男)より
哈爾浜新市街ホテルオリエント 広島××男宛
過去ノ活動ノ経験ヲ鼻ニア〔カ〕ケテ現地ノ農民工作ヲ始メ其他ノ組織活動ニハ
斯ル経験ガモノヲイフノタト言ハンハカリノ顔ヲシテヰルノカ相当イタトノコトカ
ヲ〔フ〕言フ考ヲ持ツタ者カ居ルトスレハ他ノ真面目ナ同友達ハ陰ニ陽ニ迷惑スル
場合カ想像サレルノテ其ノ様ナ人達ハ早ク転向者ノ殻ヲ脱スルコトカ必要テアル
発信者所属憲兵隊ニ通報シ関係者ノ動静視察中」
憲兵隊の対処も様ざまである。〔 〕は、もとの書簡ないし転記の際の誤写と見て引
用者が付した。なかには、化学戦(七三一石井部隊)関連の史料も見える。
○第三巻には、一九四〇年一〜七月の「通信検閲月報」の記事を掲載。兵隊の絶望的
な不満をぶつける文面も多い。
○頁を繰るたびに暗澹たる気持になる。憲兵隊は、軍規保持を目的とする立場にあ
る者。その書類処理の杜撰さは、何よりも軍が軍としての体をなしていなかったこ
とをよく示している。とても戦争を構えられるような国ではなかったことを、今更
ながら、思い知らされる。
自らの力を判断する能力があれば、戦争を回避する努力をしたはずである。満州
事変も起こしてしまってから、方策を思案したのは明らかである。
*『体系的研究法』に訂正追加。『栄華物語』中の光源氏の比喩は「殿上の花見」に最も典型的
に現れています。講義しながら、「鶴の林」と記してあることに気がつきました。
*『宮沢賢治―氾濫する生命』への吉田文憲氏による書評が『東京/中日新聞』(9/13) に掲載
されました。「研究書としては第一級の入門書」という評は、ありがたく受け取ります。
宮沢賢治研究の「新たな地平を拓く」つもりで書いたものですから。
宮沢賢治の世界のしくみとそれにあった研究方法を述べた章が「導入」のように受け取られ
たようです。また、わたしの研究では、詩人や作家の文芸・文化史上の位置づけは結論、す
なわち最終出口にあたります。
*「戯詩 釘抜き師」 20 日間長春に発つ前に pdf
*『リベラリストの戦争―菊池寛と「文学界」の人びと』(本文 570 枚/400 字)を脱稿。
戦後 70 年。リベラリストたちは、なぜ、戦争に深くコミットしたのか? 菊池寛、小林秀雄、
河上徹太郎、横光利一、三好達治・・・それぞれの軌跡を問いなおす。
再版希望が寄せられていた『「文藝春秋」とアジア太平洋戦争』(版元倒産により絶版)を全
面改訂。20%増。
2015/8/11
*『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』訂正表に、さらに追加がでました。注の青字部分
*わたしの『日本文学の論じ方―体系的研究法』中、谷崎潤一郎『細雪』について、
「抵抗の
文学ではない」とする意見を「二重の誤り」と書いてあるが、谷崎が自分で、「戦争反対の意
志はなかった」と言っているのに、なぜ、そのようなことが言えるのか、詳しく説明してほしい、
という質問が寄せられました。
「生身の作家」還元主義を批判する文脈に例として出したものです。
?まず、谷崎潤一郎『細雪』は不定期連載の第二回で禁圧を受けました。
対米英戦争期の権力者は日本の社会にとって、不都合なものと判断したのです。これ
は客観的事実であり、動きません。
このことは、作家がどういうつもりで書いたか、ということと、まるで無関係なことです。たとえ、
それまでに「大東亜戦争」に協力する意志を表明している作家であっても、です。
そして、第二回までに、直接、戦争の時局に対する作家の姿勢をうかがせわせるような
ことは何も書かれていません。
では、なぜ、権力者が、時局にとって不都合と判断したのか、それを考えてみることが
必要になります。贅沢を戒めるべき時局に、かつての金持ち層の贅沢な生活な場面を
繰りひろげてみせる小説など、不適当と判断したと推測するしかありません。
そして、谷崎は禁圧された『細雪』の前半を自費で印刷し、友人知己に配り、これも禁
圧されました。情報局にとっては、先の禁圧に立て突く態度に映ったことでしょう。
対米英戦争下で、谷崎の姿勢が、その意味で反体制の意味をもっていたことは誰にも
否定できません。
もともと谷崎は、エロティシズムをこれでもか、と振りまく作家で、「検閲官」(1919)では、
風俗壊乱をめぐる検閲の不当性を小説化しています。当局のやり玉あがりやすい作家
でした。これについては、これまでに再三書いてきました。
作家の自作解説など、まったくアテにならないことを『研究法』では具体的事例をあげて
示しています。作家の意志は、こうであったということを示すことは、すなわち作品自体
の社会的意味を示すことにはならないのです。そして第二は、谷崎潤一郎が、第二次
世界大戦の直後に、作家たちが、そして自分も、だんだん軍部に巻き込まれたというこ
とをはっきりと述べています。
自分は「戦争」に反対する意志から『細雪』を書いたわけではないという意味のことばも、
この意見の変奏として考えてみなくてはなりません。
実際、『細雪』には、ドイツ人の口からイギリス帝国主義批判を語らせてもいます。ドイ
ツ人なら当然と思われる内容です。そして、谷崎自身「大東亜戦争」には、アジア解放
のための戦争という一面があると信じていたと思います。
しかし、他方、戦争自体が槇岡家の人々にとっては、厄災のひとつであったことも明
確に地の文で述べています。
「生身の作家」がいつ、どのようなことを語ろうと、作品は、槇岡シスターズをめぐるも
のですから、「作品の背後の作家」は、槇岡家の人々にとって戦争は厄災のひとつに感
じられた、ということを、作品全体を通して具体的に開陳していることになりましょう。
もちろん、そのような戦争観をどのように評価しようと、それは論じる側の勝手です。
が、この作品のモチーフ自体は動かしようがないのです。以上が答えです。
同じようなことは、石川達三『生きている兵隊』にも言えます。たとえ、石川達三自
身が、のちに「南京虐殺などあったとは信じていない」と語ったことがあるからといって、
南京攻略戦に実際にかかわった兵士たちから取材し、それをルポルタージュ風の作品
にしたてたこと、掲載誌が発禁処分受けただけでなく、訴追まで受けたことは動かしがた
いのです。
そして、当局が、南京事件を徹底的に伏せさせたことについては、再三書いてきまし
た。
むしろ、生身の作家に「南京虐殺など事実としてあったと自分は信じていない」と語らせ
るような社会的な圧力が、加えられたと考えた方が自然でしょう。
○日本の近代文学の研究者のなかに、作品とその著者の考えとを同一視する態度があ
ることは、本当に度しがたいものです。批評でも同じです。
高見順『いやな感じ』についての本多秋五の批判が、高見順のいわんとすること――
戦後左翼が陥っていた階級闘争主義に対する批判――をまったくつかめずに、独善と
欺瞞に満ちたものであることを述べたついでに、本多秋五を「ヤクザな批評家」と書い
たことがありました。
それに対して、ある高名な研究者から、顔を合わせたとたんに、こう言われたことがあり
ます。「本多さんは紳士ですよ。あんな紳士をヤクザだなんて」と。お前は、そんなことも
知らないのか、といわんばかりの顔でした。
あっけにとられて、思わず、こう言い返してしまいました。「まるでヤクザな内容のことを
書いているから、批評家としてヤクザだと書いたのですが」。
紳士然としている人が、そういう人の述べていることが、まるで、ヤクザと同じだ、わた
しはわざと書いたことを伝えたのです。
(いや、それは仁義を知っているヤクザに対して失礼な言だったかもしれません。)
とても、いやな顔をされたことを覚えています。この研究者は態度、物腰が「紳士」なら、
書いていることも「紳士」と固く信じているのです。
志賀直哉が『濁った頭』などを「苦しみながら書いた」と事典に書くような研究者、といえ
ば誰のことか、わかる人は多いと思います。「性」のことを書くのに、「志賀先生は苦しん
だ」と書くことで、志賀直哉の「人格」を救済したつもりになっているわけです。
ここには、悪しき実証主義と悪しき人格還元主義が重なっています。まったく度しがた