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鈴木貞美hp what's new 20212013 

2012−2006      

「鈴木貞美 hp」 または 「sadamisuzukihp.jp」 で検索してください。

 編集が進行中です。

   『アナホリック國文學』第11号 特集・石川淳 (2022年秋刊行予定)

   『座談会 日本文学史を編み直す』(全6巻、水声社)。  

    第1巻・総論篇(古橋信孝/錦仁/兵藤裕己と)。日本文芸史の未知の可能性が次つぎに開けてきました。

    第2巻・古代篇(古橋信孝/藤井貞和/三浦佑之と)。日本古代文芸は、ここから扉がひらきます。

 ●『満洲事典』(筑摩学芸文庫)、原稿整理が進行中です

〇2021/06/11

   『アナホリック國文學』第11号「特集・石川淳」のコーディネイターをおおせつかりました。

  林浩平・佐藤美奈子両氏と打ち合わせ。夏の終わり頃には執筆依頼にかかるはずです。

〇2021/04/23     「三遊亭円朝の位置ー明治期「言文一致」再考Ⅱ」(100枚/400字)を季刊『iichiko』に投稿しました。『iichiko』2020 Autumnの続篇です。

            円朝口演とその速記について、明治前中期における民衆芸能や文芸全般の動きに留意し、

          ➀その情と景のリアリティは、江戸後期における講談の臨場感の演出、また紀行文の実地主義、監察記録化への傾きと関連すること

          ➁その口語敬体が明治期「言文一致」にはたした役割は、小説のおける言文一致運動の最初期に「きっかけを与えた」程度に止まること、

          ➂その文芸史上の位置については、新たな国民道徳・国民文化の形成期における演芸や翻案ものの在り方を、とくに出発期の幸田露伴の仕事

           と関連させて考察しました。

                      

〇2021/02/26   「 中村真一郎と三島由紀夫―エロスと能をめぐって」(140枚/400字)を『中村真一郎手帖』16号 (4月刊行予定)に寄稿しました。

            日本近現代文芸におけるエロティック・フィクションの展開を概観し、そのなかにおける中村真一郎と三島由紀夫のそれを比較し、

          とくに、「卒塔婆小町」など能を題材にした中村の小説と三島の「近代能楽」との態度のちがいに焦点をあてました。

〇2021/02/15『満洲国―交錯するナショナリズム』(平凡社新書)が刊行されました。 

      政治・軍事・経済・文化の絡み合いを解きほぐし、新視点からアプローチ。

   「満洲国」でっちあげ史観の落し穴。「満洲国」独立方針の「黒幕」は、宇垣一成。

   「建国宣言」に「五族協和」も国家元首も登場しない理由。カイライの主体性は、どこに?

        大豆モノカルチュア、その貿易実績。  「開発五ヵ年計画=満鉄解体」と日中戦争の構造的矛盾。

    板垣征四郎と石原莞爾の分かれ道。 

      「満人」の「反満抗日」の実態は? 「満人」の小説が暗い理由、などなど。

    

〇2021/02/15  神奈川近代文学館 3~5月企画展『新青年』に寄せて、官報152号に「昭和の大衆モダニズムをリード」(5枚/400字)を寄稿しました。 

〇2021/01/11      Forword  for An Antthology "Shadow of Disire; Erotic Tales from Japan" edited and translated by Maryellen Thomas Mori.  

                          12枚/400字を送稿

〇2021/01/02    「たとえば『文学』、たとえば『佳人』ー総合的石川淳論の方へ」(70枚超/400字)

        田中優子、小林ふみ子 、 帆苅基生、山口俊雄との共著『最後の文人 石川淳』(集英社新書/2021/04刊行予定)に寄稿。

 2020/12/15         

〇2020/10/15   明治期『言文一致』再考―二葉亭四迷『余が言文一致の由来』を読みなおす」(130枚/400字)が

       季刊『iichiko』2020 Autumnに掲載されました。

       不十分なところは多く残しつつ、

       わたしの「明治期『言文一致』神話解体再編成」の最終版のつもりです。 誤植訂正

        

2020/09/30     recent articles を補填 下の二点を吉林大学外国語学院基地集会報告書(2016)に寄稿しました、

           日本の「文学」とその下位概念の変遷(130枚/400字)

           日本人の自然観ー日本文化史を再構築する(90枚/400字)

2020/07/18   『「満洲国」とは何だったのか』の推敲完了。

        大政翼賛会文化部編『軍神につづけ―和歌三十三首 俳句五十七句 詩十九篇』(大政翼賛会宣伝部、1943年3月)中、        

         安西冬衛の詩「軍神につづけ」 に次のような、天皇崇拝の極点を示す語句を見つけた。

         モダニズム象徴詩派の世界観も、ここまで舞いあがったシルシとして記しておく。

                          山水海嶽/帰一してことごとく/天皇の率士/ああ/感激の十二月八日/乾坤、転じ来つてふたたび咫尺にあり

          

         なお、『軍神につづけ』のタイトルは、二度目の十二月八日を迎えるにあたって大政翼賛会の依頼に応じ、文学報国会が選ん標語。

         大政翼賛会文化部長・高橋健二による「はしがき」は、「至誠の凝るところ一億国民のすべてが軍神になりうるのである」とはしまる。

    

2020/07/02      「明治期『言文一致』再考―二葉亭四迷『余が言文一致の由来』を読みなおす」を脱稿。

         山本正秀『近代文体発生の史的研究』(岩波書店、1965)を根底から覆す明治期「言文一致」論の最終版、

         前近代「言文一致」との相違に力を注ぎました。120枚/400字。

         季刊『iichiko』秋号に寄稿予定。

2020/06/22    『中国新聞』(6/17)に西田幾多郎関連記事、コメントが掲載されました。pdf 

2020/05/18   『歴史と生命―西田幾多郎の苦闘』の安藤礼二さんの書評(共同通信配信)が、出はじめました。

        『沖縄タイムス』(5/9), 『信濃毎日』(先週)

2020/05/01   『歴史と生命―西田幾多郎の苦闘』 「誤記・誤植訂正」欄に追加しました。

        p.118 ▼36 鈴木大拙についての注、l.5 「大拙は」以下五行 削除します。

           安藤礼二さんより、ご指摘を受けました。感謝!   

        大拙の経歴は、2003年版『大拙全集』40巻に従います。

         

2020/04/18  『日経』夕刊文化10面 三好達治「春の岬」 コメント 

2020/04/12   西田幾多郎生誕150年 コメント 『時事通信』配信

2020/03/19    最近のエッセイ「時雨の移ろい」をアップロードします。sigure2020

           これも、概念史研究の一環です。雑誌掲載のタイトルは編集部。         

2020/02/04   『歴史と生命ー西田幾多郎の苦闘』  念校終了。

        recent articles 更新。

2020/01/09  『歴史と生命ー西田幾多郎の苦闘』著者三校、索引づくり終了。

2019/12/27   日本女子大シンポジウム「石川淳と江戸」

       山口俊雄さん、田中優子さんほか、みなさんのおかげで、石川淳論に新たな地平が開けてきました。

       おいおい、展開してゆきます。

2019/12/26  大阪市立大シンポジウム

        概念編制史のまとめに向かうレクチュアをしました。

        若手教員と大学院生の発表にも触発されるところがありました。        

2019/12/10    recent lec. 追加

 

2019/11/10 紫式部文学賞授賞式。今年から式後、受賞者の講演会。 

         山崎佳代子さんが熱演、盛会でした。

                  

2019/11/08 バリから戻りました。

        旧知の友人たちと会え、新しい若い友人たちも得られました。

 

2019/10/811/7  パリ高等研究院にレクチュアに行きます。

gmailのアドレスで連絡がつきます。                       

 

2019/09/24

吉林大学外国語学院での集中講義の合間に、『風土記』を読み直していたら、

『常陸国風土記』の前文にあたるところに「自然」(自ずからしかり)の語が出ていました。

『日本人の自然観』(P.84, l.4末尾)に補っておきます。

 

2019/09/07

明日、2019/09/0810/1まで、中国・長春、吉林大学に集中講義に行きます。

この期間、わたしはgmailを使用できません。メールは、Yahoo.jp のアドレスにどうぞ。

 

2019/08/15

〇『鴨長明―自由のこころ』に訂正追加が出ました。

   総研大文化科学研究科の卒業生、岡本久美子さんより、

  秋道智彌「下鴨神社の森と湧水」(生き物文化誌学会『BIOSTORY31号、誠文堂新光社、2019

  のpdfを送ってもらい、 改めて、中島暢太郎『気象と災害』(新潮選書、1987)中「京都鴨川水害史」を参照しました。

 

2019/08/06

今秋、講演と集中講義に、9月、中国・吉林大学、10月、パリ・高等研究院(EHESS)に赴きます。

 

2019/07/29

『座談会 日本文学史を編み直す』(全6巻、水声社)、第2巻古代篇(古橋信孝・藤井貞和・三浦佑之と)の収録を終えました。

 

2019/06/24

倉本一宏・小峯和明・古橋信孝編『古代中世説話の形成と周縁(中近世編)』臨川書店が刊行されました。

鈴木貞美「『説話』という概念―文化史の再建から文芸史研究へ」では、「説話」なるものの研究方法の提案をしています。

なお、検討すべき今日の「説話」概念の指標として、

国東(くにさき)文麿「物語・説話と説話文学」(『新編 日本古典文学全集35  今昔物語集()』小学館、1999)

を挙げましたが、これは『ジャパン・ナレッジ』に掲載されていることを付け加えておきます。

また、『今昔物語集』全体の編集が、天台によるものとされてきた理由、鎌倉時代以前の法相宗僧侶ではありえないことは、

座談会 日本文学史を編み直す』総論篇で、語ります。

 

2019/06/01

『西田幾多郎―日本哲学の蹉跌』(650/400)は、今秋、単行本で刊行予定です。

                                                                         

2019/02/25

〇講演録「『万葉集』の自然観」(奈良県立大学ユーラシア研究センター『調査レポート』3月予定)の校正が終わりました。

   ぐっと圧縮していますが、日本の「民謡」概念、「自然」概念についての勘所も語っています。

 

2019/01/18

〇『日本人の自然観』、佐々木力氏、村上陽一郎氏が2018年の収穫にあげてくれました。

 とにもかくにも感謝!!!

 

2019年今年の執筆予定(『出版ニュース』一月中下旬号) 〔影の声〕つき

二〇一八年には『日本人の自然観』(作品社)を、かろうじてでも、まとめることができた。

文・理に橋を架けるのだから、それぞれの水準を調節するのに骨が折れた。

〔新たな提案に力を注ぎ、すでに論じたことは、参照を期待して、はしょって書いてあります。

とくに文芸文化史に関心のある方は「方法」を読んでくださいますよう〕

 

わが身の骨はともかく、橋脚・橋桁・ジョイント部に瑕疵が生じていないか、

土台から点検と補修こそがライフ・ワークになる。

今後、機会に応じて、詰めるべきところを詰め、展開すべきところを展開してゆきます

 

その一環として、西田幾多郎について一書を執筆中。

〔生命原理主義の変貌、西洋哲学の再編から「東洋回帰」へ、実在論から形而上学へ、

思潮史や時局への対応など、詰めています。いま、半ば〕

 

もう一つ、コールサック社の高橋和巳論集にエッセイを寄せた。

ほんの数日前、『堕落』掲載の『文芸』一九六五年六月号が押し入れの奥から出てきた。

「満洲国」問題は、そのころから抱え込んでいた課題だったと判明。これも今年あたり、一段落つけるつもり。

〔『悲の器』『堕落』「六朝美文論」について書きました。今、読むべきところと読み方を書いたつもりです。

『堕落』を読んだのが、いつかわからない、と書いたことの答えが押し入れの奥から出てきたという意味です。

1971年7月『文芸』臨時増刊 高橋和巳追悼特集も出てきました。何が失われてしまったのか。考えさせられます。

『満洲事典』にもケリをつけます。〕

 

ジャンル概念をめぐっては「説話」について、神話群や各説話集の「編集の思想」を組み合わせ、

臨川書店より六月刊行の論集で提起する。

〔「説話」概念は明治後期の神話学で成立したものです。日本古代に「英雄」は書かれていない。

『今昔物語集』も、その「編集の思想」から問いなおしました。〕

 

わがストラテジーは「日本文化史の再建から文芸史研究へ」に定まり、

日本文芸史再編の座談会シリーズ全六冊を古橋信孝氏と各位の協力を得て、水声社から刊行開始する。

〔私が基調報告をつとめた『総論篇』を編集中〕

 

2019/01/04

・『座談会・日本文芸史』総論篇(水声社/全六冊)が進行中です。

 

・最近の著作(recent articles)に追加。

 

  『日本人の自然観』誤記・誤植訂正に追加。

無我夢中が過ぎます。我ながら呆れかえるほど。猛省。

 

2018/11/19 

  「『説話』という概念―文化史の再建から文芸史研究へ」を脱稿。

 日本近現代における「説話」概念の形成・展開過程を明らかにし、

日本の古代神話に『英雄』は登場しない、

『今昔物語集』は中国の法苑林珠手本にした天台の仏教説話集、

という二点を中心に、古代神話と中世説話集の双方にわたって

「編集の思想」を問い直す必要があることを提言します。

『古代中世説話の形成と周縁』臨川書店(2019)に掲載予定。

 

2018/11/1

 武漢大学での講演及び国際シンポジウムより戻りました。

いろいろと収穫が多く、今後の展開が楽しみです。         

 

2018/10/27

  『日本人の自然観』作品社/2018,10/786頁・含索引)が刊行されました。

 

 文理複合の方法により、日本人の自然観を根本から問い直す書です。

 

 古代から現代まで、国際的視点から、日本の科学=技術と文芸・思想文化の歩みをあわせて再編。

 

 掛け値なしの労作です。

 

2018/10/16

高橋和巳論集刊行委員会編『高橋和巳の文学と思想―その〈志〉と〈憂愁〉の彼方に』コールサック社が刊行されます。

記者発表にメッセージを送りました。

 鈴木の論考「高橋和巳に誘われー『悲の器』『堕落』「六朝美文論」とその周辺」に誤植が遺ってしまいました。

お詫びして訂正します。Errata欄に記載。

 

2018/10/10

 『日本人の自然観』(作品社)が校了になりました

 

(2018/09/29)

佐岐えりぬさんを偲ぶ会(アルカディア市谷)で司会をつとめました。

 

(2018/09/24)

紫式部文学賞・記者発表 水原紫苑{『えぴすとれー』について講評。

 

(2018/09/22)

 吉林大学での国際シンポ、集中講義から戻りました。

 

(2018/08/16)

中国日本文学研究会年次大会(内蒙古大学)より帰国しました。

 

(2018/08/06)

本欄6月の記事をわずかに修正しました。

 

(2018/06/20) 

「高橋和巳に誘(いざな)われ―『悲の器』『堕落』「六朝美文論」とその周辺」(85/400)を脱稿。

太田代志朗・田中寛共編『高橋和巳を読み解く』(コールサック社)へ寄稿。

 

(2018/06/14)

『日本人の自然観』(本文1500/400)、作品社より10月刊行が決まりました。

  地球環境危機に直面し、「自然の恒久性」の破壊が進行している現実と、IT、AIの急速な発展のあいだで、

われわれは宙づりにされ、「日本人の自然観」は俗説と短絡に満ちた漂流をつづけている。

前近代の日本人は本当に「自然」を対象化できなかったのか?

nature”の翻訳語は、まずは「性()」と「天地」だった。これはいまでも変わらない。

日本で20世紀への転換期に「自然」が加えられたのである。

明治期の翻訳語「自然」の成立と定着についての見解を根本から検討しなおし、

「自然」観にアプローチする「文=理」統合の複雑系思考の方法を提示する。 

中国と西洋近現代の「科学=技術」史および自然観の関係とその変転を洗いなおし、

日本の上代から今日までの「天地自然」観、思想と技芸の関係、その変遷を通覧する。

日本文化史の再建と文芸史の再生を訴える。

 

(2018/06/01)

  ●『日本人の自然観』(1500枚強)を脱稿しました。

 

  日本列島は、前近代から天然物の開発に勤しみ、18世紀から公害が多発、足尾鉱毒事件、水俣病はもとより、

福島第一原子力発電所の事故まで、地震や火山の爆発、洪水などの天災を人災が増幅する歴史を繰り返してきた。

西洋とも中国とも異なり、日本人は伝統的に「自然を愛する国民」論は、

文部省が児童に「天然物を愛する心を養う」を理科教育のモットーにしていたとき、

自然志向、博物学の高まり、「山林保護の伝統」論などを背景に、芳賀矢一『国民性十論』を先蹤とし、

藤岡作太郎が『国文学史講話』で唱え、和辻哲郎『日本古代文化』、土居光知『文学序説』へと引き継がれたもの。

 

日本科学史は、伝統的な「天人合一論」や「情緒的自然観」が科学=技術の発展を阻害したと唱えてきたが、

1970年代に地球環境危機に直面し、東西の「自然」観の相対比較に転じ、日本文化論はむしろ「自然と一体」の観念を強めた。

漢文リテラシーを考慮しない大野晋『日本語の年輪』、

nature”の多義性を無視し、翻訳の実際に踏み込まない柳父章『翻訳の思想―自然とNATURE』など、

日本の「自然」概念と自然観をめぐる俗説の数かずを糺し、その根本からの転換を促す。

「天地」・「おのずからしかり」・「本性」はみな、Natureに対応する概念である。

それゆえ、東西の自然観の古代からの比較が可能になる。

 

「機械論」・「エネルギー」・「有機体」・「実学」など概念の成立と展開を追い、

「科学革命」論からパラダイム・シフト論への展開、ジョセフ・ニーダムの中国科学史の背景、ホワイトヘッドの「永遠の客体」などなど

「宗教」・「科学=技術」・「芸術」・「国家=社会」の相互関係を、自然科学と人文・社会科学の双眼鏡で見渡し、

日本人の自然環境とのつきあい方を国際的な視野から辿りなおす。

 

古代神話に現れる邪神のコトムケと土木工事、歌謡と『万葉集』の自然観を探り、

中国詩論に立脚した『古今和歌集』序文、「四季」の観念の確立の社会的背景を論じ、

仏教思想と中世歌謡の関連、『新古今和歌集』の評価史、江戸時代の儒学の日本的特殊性、「開物思想」の展開、

エネルギー一元論の受容と帝国大学の創設との関連、「叙景」の近代化から象徴主義文芸の展開を明らかにし、

「環境に適した科学」を訴えた寺田寅彦「日本人の自然観」、分子生物学から複雑系の科学まで今日の課題に挑む。

『生命観の探究』の成果を「自然観の探究」へ開く、創見に満ちた労作を自負する。

 

 

(2018/05/27)

   〇「都市と多重言語、そのかかわりの歴史へー体験的国際比較論」を『日本語学』8月号に寄稿しました。

 

(2018/04/25)  

〇「日記の彷徨」を『kotoba』夏号(06/06、集英社インターナショナル)に寄稿しました。

 

(2018/04/21)

  これまでの著書の内、三上参次・高津鍬三郎合著『日本文学史』についての補注を次のように改めます。

*上巻(ないしは鎌倉時代まで)を担当した高津鍬三郎と、下巻(ないしは、上巻の鎌倉時代以

)を担当した三上参次とのあいだで、その理念に揺れが見られる。〔総論〕には、国学者

流に和文主義は とらず、漢文を重んじて参照するとあるが、別項に漢文は本文に引用しな

いともいう。上巻で高津は作品としては、『古事記』『日本書紀』の歌謡からはじめている。

ただし、〔第二篇 奈良朝の文学〕の文体例に、『続日本紀』より宣命二篇を漢文、詔勅二篇

を訓述体、また『古事記』より神話三篇、『出雲国風土記』より国引き神話(原文は崩れた漢文)

を訓述体で載せている。それに対して、下巻では、歴史書を重視し、また新井白石の漢

文の著書を収載している。

 

「ただし」以下、赤字部分、原稿に脱落が生じていました。お詫びして訂正します。

この補注は、『日本文学の論じ方』『「日記」「随筆」―ジャンル概念の日本史』につけたはずです。

 

(2018/04/20) 

 〇講演要旨 「近代的『自然』概念とその定着をめぐって」

(5/19比較文学会東京支部例会,東工大大岡山西8号館 W833教室14:00)

 

     ?柳父章『翻訳の思想自然とNATURE』(1977)の功罪を問い、近代的「自然」概念の定着

の問題が解決していなかったことをはじめ、多義的な鍵概念の翻訳問題にアプローチする

方法の基本を提示する。

ロブシャイド「英華辞典」の”Nature”を媒介として参照することの必要性と必然性。

 

?文部省用語が昭和戦前期まで「天然()(「天然」は天地自然、天地のあるがまま)だったことなどを考慮し、

多義的な近代的「自然」概念の定着過程を、リセプターとしてはたらいた伝統的概念とともに再考する。

 

前近代まで「自然」は「自ずから然り」の意味。”Nature(本性)との重なりに注意。

これは、「自然体」などに、いまでも活きている。

対象的「自然」の概念には、「天地」(あめつち)、「万物」、「森羅万象」などがあった。

 

相当する概念が「ヤマトコトバにない」として、前近代日本に対象的「自然」の概念がない

とするのは、「国学」の影を引きずった近代の言語ナショナリズムの陥穽。

ヤマトコトバも、古代から漢文が書けた人びとが「訓述」したことが忘れられている。 

 

?20世紀前半の英語圏で有機体的宇宙進化論が流行したこと、また、地球環境問題に直面し

1970年代から「日本科学史」が変貌してきたことなどと関連させ、近現代における「自然」

概念とは何か、改めて問題提起する。

 

?報告時間の余裕に応じて「日本人は自然を愛する民族」説の由来について、比較文化史の

観点から、藤岡作太郎『国文学史講話』(1908)、和辻哲郎『日本古代文化』(1920, 25, 39)、

土居光知『文学序説』(1922, 27)とそれぞれの理論的・歴史的背景および影響について述べ

てみたい。

 

  〇戦前・戦中期の出版検閲に関心をお持ちの方へ。

浅岡邦雄「出版検閲における便宜的法外処分」(中京大学図書館学紀要38号、2018年3月)

    が、お勧めです。 「削除処分」と「分割還付」のちがいも、まとめてあります。

    これが、とてもわかりにくいところでした。

 

    中里介山『夢殿』連載第4(『改造』昭和2年9月号)は、

発売頒布禁止 → 分割還付 → 切り取り作業 が通説のようになっていますが、

削除処分命令 →  切り取り作業 とすべきです。その理由も、丁寧に明らかにしてあります。

 

191911月の著作家協会と内務省の交渉についても記してあります。『読売新聞』(1919/11/26朝刊7面)記事

    「削除処分」(切り取り)が著作家協会側の意向であったことも、これで了解できました。

    

これについて、わたしは、「分割還付が出版社側から持ち出された」と、

どこかで喋ったか、あるいは書いたか、した憶えがあります。

    若いときに聞いた、ベテランの編集者からの伝聞によるものでした。

いま、どこに書いたか、見つかりませんが、ここに、訂正します。

 

(2018/04/18)  recent lecture 更新。

   

(2018/04/06)

(2018/03/29)記事につき 鶴見俊輔『限界芸術論』についてのコメントを大幅に修正しました。

(2018/03/29)

 (03/12)記事に質問が寄せられました。(04/03, 07追記)

      

明治期の「純文学」と「大衆文学」「大衆文化」との関係がよくわからない、

古代の歌謡は「大衆文学」のように土橋寛は書いている、ともありました。

後者は、少しちがいます。鶴見俊輔が考案した「限界芸術」の概念を転用したものです。

      

?まず、確認してゆきましょう。

明治期の「純文学」は、1920年代に形成される「大衆文学」の対義語ではありません。

「文学部」の「文学」に対する下位ジャンルです。

「哲学・史学・文学」の「文学」 を、大きな「文学」と区別するため、呼び分けたものです。

当時、「大衆文学」という概念は成立していなかった。

この「純文学」を「大衆文学」の対義語として読めば、歴史性を無視した誤読になります。

文字で書かれた言語芸術を意味する「純文学」の下位概念に「詩・小説・戯曲」があり、

「大衆文学」は小説に限って用いられましたから、そのまた下位概念です。

混同しようがないほど、概念レベルもちがう。それも無視している。

 

「大衆文学」は、1920年代に「文壇」の小説が、文学青年向けに陥ったと判断し、

勤労大衆向けの小説を創り出してゆくことを目指した一種の文芸運動として開始されたものです。

白井喬二が主導し、江戸川乱歩を誘って同人雑誌「大衆文芸」を創刊(1926)しましたから、

当初は、時代小説と探偵小説の二つのジャンルに限られていた。

菊池寛はれっきとした文壇人ですから、その『真珠夫人』(1920)など現代ものは「文壇小説」とされていた。

新聞小説は、概して、一般向けという意味で「通俗性」が高いが、文壇人が書けば「文壇小説」。

 

白井喬二の提案に、『サンデー毎日』が呼応して、懸賞募集するなどし、

平凡社が円本「日本大衆文学全集」を1927年に企画して宣伝したので、瞬く間に定着しました。

その意味で、日本に独特の歴史性をもった概念です。

英語に翻訳するなら”mass literature”とすべきです。”a kind of popular literature”とはいえますが。

 

欧米の市民社会の形成期に一般読者向けに発展した「ポピュラー・リテラチュア」(民衆文芸)とは、性格がちがう。

「ポビュラー・リテラチュア」を被支配層をいう「民衆」が享受するためにつくられた文芸という意味で定義すれば、

古くは「民謡」や「民話」など、共同体で自然発生するものがあげられます。これはoral performanceの一種です。

文字化して残されているものは知られていますが、消えてしまうものの方が多かったはず。

 

次に、「民衆文学」を「読み物」として制作されたものに限定するなら、国際的に一番早いものとしは、

中国の講談から発生した「白話小説」があげられるでしょう。

口承されていた伝奇」や「志怪」を撰述したものとは、区別される。

 

『平家物語』は琵琶に載せて語る「語り物」として増殖していった。

『太平記』は、講談のように民衆の前で読まれる「読み物」として書かれたもの。

日本の中世の「お伽草紙」などは口頭伝承を撰述したものです。

それらとは区別される、書き手の個性(考えや表現の仕方)が強く出た井原西鶴の「好色もの」、

また近松門左衛門の浄瑠璃、芭蕉の歌仙(36句の俳諧連歌)などなど、

多彩な種類の民衆向けの読み物(一般概念としての)が、17世紀後期の元禄期に多彩に開花した。

そのころ、ヨーロッパで民衆向けの読み物は、教会の前で売っている民衆教化のためのパンフレットくらいしかなかった。

 

ヨーロッパで「民話」の採集が行われ、刊行されたのがよく知られる『グリム童話』(1812)

ただし、近代的な改編が行われていることが指摘されています。

でも、『グリム童話』が本当にヒットしたのは、絵入のイギリス版(1825)19世紀半ばにかけて拡がった。

『マザー・グース』が膨れあがって刊行されたのも同じ頃。民謡が注目されたのも同じころから。

なお、シャルル・ぺーロ―の童話集は17世紀末で、断然早い。が、もとは韻文で、宮廷サロン向け。

「コント」とついた教訓譚のかたちに仕立ててあります。これが、とこても「童話」の基本形。

(そののち、日本では、1920代に、教訓臭を脱する運動が起こり、「児童文学」などの名称も拡がります。)

 

先のヨーロッパの動きに上田敏が反応して「民謡」の語を用いたわけです。

森鴎外も用いたが、そのころ、上田敏は?外のもとに出入りしていたから発信源はひとつ。

「民謡」という新語を用いただけで、「俚謡」「俗謡」は江戸時代から広く流布していたことは、

前の議論で紹介しておいたpdf「民謡の収集について―概念史研究の立場から」を参照してください。

「民謡」概念をどのように扱うべきかを提示してあります。

 

「大衆」の語は、日本の場合、1920年代に、社会主義者、高畠素之が”mass”の翻訳語として用いたのが嚆矢です。

これは、しかし、社会主義運動の用語で、必ずしも、一般に拡がらなかった。

それ以前、明治から、それぞれの含意で「大衆」を用いた用例は見かけます。

早くは『自助論』に、peopleの訳語として登場するが、これは文脈からキリスト教の宗門の徒という含意でしょう。

また、夏目漱石がケンブリッジ大学の食堂で見かける学生たちを「大衆」と呼んでいたと思いますが、これも同じような含意があると見てよいでしょう。

「大衆」(だいす)の語は、日本では、古代から「一山の大衆」など、大勢の僧侶の意味で用いられていましたから。

それゆえ、それらは定着しなかった。

白井喬二は、高畠素之の用法を文芸に転用したのです。そして、それが拡がった。

仏教界は、この転用に反対しました。しかし、大量宣伝時代に入った時期の趨勢には勝てなかった。

 

国際的に見ても、エンゲルスが20世紀に入ってから用い、ドイツで「マッセン・ストライキ」などに用いられて、

拡がったと見てよい。ゼネラル・ストライキ(統一スト)に対して、散発的なストライキを総称していたようです。

この背景には、ロシア革命で、ボルシェビキが、労働者階級と農民貧困層を結び付け、「ナロード」と呼んだことがある。

これはロシア語で”people”を意味する語を転用したもの。日本では訳語に「人民」の語が用いられた。

「人民」は古くからの中国語で、同じく”people”に相当する語でしたが、

日本では、このとき、「人民」に左翼用語のニュアンスがつきました。

 

1920年ころは、国際的に、先進国で工場生産過程に流れ作業方式(フォード・システム)が導入され、

大量生産/大量宣伝/大量消費の歯車がまわりはじめ、廉価な商品が階級を越えて出まわりはじめた時期です。

チャップリンの映画、『モダン・タイムス』(1936)が風刺した光景です。

いよいよ、人間が機械部品のように扱われるようになった。

早くにその現象を指摘したのはトマス・カーライルです。イギリスで工業革命(産業革命)が一段落した1830年ころです。

人間の手足が機械のように用いられている。教会の組織も機械みたいになっている。社会も賃労働で動いていると告発した。

エンゲルスは、これを読んで感心した。マルクス主義の出発点になりました。

カーライルは、といえば、かつて偉大な人間が歴史を動かした時代を「英雄崇拝の時代」として描きます。

 

なお、明治期にお金で徴税されるようになったので、資本主義になったといいますが、

日本の場合、労働者が階級として形成されるのは、20世紀への転換期からです。

軽工業が先行し、日露戦争を前後して、行政主導で重化学工業が展開し、

産業構造がドラスティックに変化した。これが日本の「工業革命」です。

新中間層(ホワイト・カラー)も形成される。月給制も定着する。念のため。

 

日本では、その延長で、大衆社会に突き進んだ。

大衆社会化は、各国それぞれの特殊性をもっています。

アメリカではカタログ販売が盛んで、早くからデザインが優先される傾向があるなど。

日本の場合、代表的な商品は、1923年前後に全国紙化した日刊新聞(全国紙も国際的に珍しい)

一冊一円で大量の活字を詰め込んだ円本、光度を増した電球などからはじまりました。

ラジオもそうです。大衆雑誌『キング』は、エリートの帝大生も読んだ。みな、階級を超えて消費された。

これらが「大衆文化」です。

この時期、「民衆」という語と「大衆」という語が入り乱れて、ほぼ同義で用いられています。

「民衆」と「大衆」のけじめがつかなくなった遠因は、このあたりにあるようです。

 

それらを消費し、不安定な意識を共有する、階級を越えた不定形なグループが「大衆」と呼ばれました。

新聞を読み、ラジオ放送を聴いて情報を共有する不特定な集団に代表されます。

国際的に、この不特定な集団の動向が、政治に大きな影響を及ぼす時代が到来しました。

1920年代のイタリアのファシズム、1930年代のドイツのナチズムが、この階級を超えた層の運動として登場しました。

ナチスは政権をとってから、ラジオと映画を大衆向けのプロバガンダに用いました。

なお、映画は、レーニンがメンシェビキとの党派闘争にドキュメンタリー映画を用いたのに倣ったものです。

ラジオ放送も、映画も、文字を読めない人びとに訴えるのに最適でした。(ただし、日本は識字率が高い。)

 

この「大衆」の政治の舞台への登場は、全く新しい事態だったので、イギリスではEH・カーらが共同研究し、

以降、社会科学の用語として、”mass”が定着しました。マス・メディア、マス・カルチャーの「マス」。

1920年代以前に、そのような社会状態は、国際的に、どこにもありませんでした。念のため。

(先蹤としては、都市の「群衆」があげられますが、政治動向を規定するまでにはなっていない。

ロシア革命の労農同盟は、前衛党によって率いられたので、厳密には定義から外れる。

パリ・コミューン(1871)は、商店主や官吏が主体。

これをプロレタリアートのように称したのは、カール・マルクスによる「歴史の捏造」。

 

日露戦争終結に反対した日比谷暴動は、戦果が小さいことへの一過性の不満、群衆ナショナリズムの憤激です。

翌年は東京の市電スト反対集会が暴動化した。足尾鉱毒被害に抗議するデモもしばしば荒れた。

これらが重なっていき、大逆事件を越えて、男女の工場労働者のストライキが大きくなってゆく。

みな、賃金や団結権をめぐるもので、政治闘争ではない。ピークは1920年、1921年。指導者は大杉栄や賀川豊彦ら。

日本がILOを傘下に抱える国際連盟の常任理事国になり、国際協調路線をとり、一定程度、弾圧を弱めたことが大きい。

だが、政府は、普通選挙法を成立させたことと引き換えのようにして治安維持法を実施し、非合法活動の取り締まりが強化される。

労働組合の数は、その後も増えるが、争議件数は減る。入れ替わるように小作争議が増えるという成り行きです。

小作争議がそれまでなかったという意味ではありません。念のため。

 

「大衆」(mass)20世紀の概念。今日にも続いています。

日本に「大衆文化」(mass culture)が古代からあった、などといえば、国際的に学界では、笑われる。(2018/04/07)

(見世物や演芸の見物が階級を超える現象は、古代から東西に見られる。が、もって大衆が成立していたとはいえない。

日本の場合、中世の連歌あたりから俳諧連歌に、身分を越えた集まりが見られるが、江戸前期には消え、

中期の狂歌あたりから再開される。これは無礼講などにはじまる場の問題だけでなく、

次第に「四民」の対等意識が拡がることと関係している。前回のコメントを参照。)

 

?「純文学」対「大衆文学」のスキームについて。

日本の「大衆小説」は、1930年代半ばに、現代もの、恋愛小説やユーモア小説も加え、

シリアスな「文壇小説」に対する娯楽性の強いジャンル概念になります。そのころ、質を上げる動きも見られる。

 

近代概念の「芸術」は、いってみれば高級娯楽ですから、芸術性と娯楽性は本質的に背馳しません。

思想性の高さと娯楽性の高さも背馳しません。それらを兼ね備えるのは至難のワザですが。

戦前・戦中期の「大衆小説」の書き手は、みな大人の知識人です。それなりの見識があって、書いています。念のため。

戦後のカストリ雑誌の書き手から、そうは言えなくなる。

 

釈迢空『死者の書』(1939)は、奈良時代の精神文化史を背景にした、知的な要素も多分に含んだ、長篇フィクションです。

しかも、民衆芸能の諸ジャンルの形態をたっぷり取り込んだジャンル総合小説です。

その点では、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(1922)を凌いでいる。

だが、「話体」が基調なので、あまり「純文学」らしくない。それで、そういう評価はなされてこなかった。

『ユリシーズ』も通俗的なテーマ(題材)に富んでいます。だが、方法を革新した。

 

『死者の書』は、奈良時代が舞台です。上代についての折口信夫の学説と虚構とが組み合わされている。

大津皇子は、人前で処刑されたことにしている。史書の記述とは変えてある。

虚構のつくり方は、現代文学です。その点、彼の「しんとく丸」とは性格がちがう。

 

モチーフは「若き戦没者への鎮魂」という説が流布しているらしい。

では、なぜ、古代王権への反逆者ばかりをとりあげたのか? 

「山越しの阿弥陀像の画因」(1944)にとらわれていては、作品は読めない。

作家の自解をあてにするな、ということは、『日本文学の論じ方』で一章を割いて書いてあります。

 

日本の文芸批評の方法が、偏っていたとしか思えません。

題材、生身の作家の思想や生活に意を注き、作品の表現、形態、方法、構成などに無頓着なのです。

そして文芸の歴史に配慮しない。配慮しても、文芸思潮を追うから、表現の実際は無視される。

どうぞ、『「死者の書」の謎―折口信夫とその時代』を読んでください。

あなたの近現代文学史観を揺るがすと思います。文芸の批評や研究方法にヒントを得るところもあると思います。

 

テーマに囚われて、方法を読まないし、表現の実際が読めない人が多すぎます。

また、一人の作家の一部の作品しか研究しないから、同時代における表現の特徴も、作品の個性もつかめない。

『死者の書』論に限りません。梶井基次郎からはじまって、最近の宮沢賢治論も鴨長明論も、

わたしの仕事は、すべて、作品論の更新と文芸・文化史の編み換えを相互的に進める作業です

 

そして、古典の研究も、近現代を通して行われてきたものです。

近現代の思潮がわからなくては、先学の仕事の意味もつかめない。それでは超えていけない。

大西克礼は『幽玄とあはれ』(1939)を書いたのち、『万葉集の自然感情』(1943)を論じた。

佐竹昭広「自然観の祖型」(1989)は、それを超える見解を出した。

大西克礼は「美学」だから関係ないという態度ではない。きっと、佐竹氏は若いときに読んでいたのだと思う。

けれども、『万葉集』に仏教的無常観を探るという大枠は、大西克礼の問題設定に囚われていた。

 

無常観は、『詩経』『易経』(「易」は変化をいう語)にも、『孫子』にも、陶淵明の詩にもある。それぞれに意味がちがう。

山の葉が黄や紅に変化し、「自然」(自ずから然り)に錦を織ったという『万葉集』の「歌謡」は、まさに景物の変化を謳ったもの。

季節の循環する恒常性を前提にした変化の相を愛でるのは、仏教的無常観とはちがう。

むろん、「アニミズム」でも「シャマニズム」でもない。「シャマニズム」は善悪二神論。鳥居龍蔵が正しい。

『万葉集』の「自然」観、「無常」観には、まだ、研究の余地がずいぶんありそうです。

 

「大衆文学」に戻ります。

1935年ころ、一時期、隆盛を誇った「プロレタリア文学」の流れなど社会性の強い傾向に対して、

一部の人びとが芸術性の高い(つもりの)小説を「芸術小説」ないし「純文学」と呼びはじめます。

世代にかかわらず、谷崎潤一郎など意識的な人は「いわゆる」をつけている。

文壇は二つに別れましたが、新聞小説などは、その中間を行きますから、

小説の全体を二つに分断して考えることはできません。「中間もの」を名のるシリーズものも刊行されました。

 

第二次世界戦後には、シリアスな題材を扱って肩肘張らずに読める「中間小説」を掲載した雑誌が定着しました。

『オール読物』『小説新潮』『小説現代』などです。いまに続いています。

それに対して『講談倶楽部』などは大衆小説雑誌を売り文句にしていました。

にもかかわらず、1960年を前後する時期から、「純文学」対「大衆文学」の図式が文芸批評に用いられるようになりました。

戦後の政治性・社会性の強い「純文学」が「中間小説」に圧されはじめた危機感から、平野謙が口火を切り、

「純文学変質」論争が1961年に行われ、この論争によって文芸批評界に定着しました。「文学事典」類に確認できます。

 

わたしのジャンル概念研究は、ここに発しています。『日本の「文学」を考える』(角川選書、1994)

ただし、この本のころには、まだ、多分に文芸評論のレトリックを用いています。

島村抱月がスペイン風邪の流行するなかで公演を続けるなど、「自殺に等しい」と書けばよかったのに、

「自殺した」と書いてある。若気のいたりで、そのぐらいわかるだろうと想っていた。

でも、学界や教育界では「まちがい」と非難されてもしかたありません。

そのようなところもあるので読まれる方は気をつけてください。

いまは気をつけていますが、時たま出ます。

 

『日本語の「常識」を問う』で、『書経』(尚書)は「書道のテキスト」と書いて、webで揶揄されました。

中国書道の専門家にしか、意味が通じないことに気がつかなかった。

粗忽といわれてもしかたありません。書体の問題であることはミスプリ訂正欄で直してあります、

いわゆる『古文尚書』の杜林本 → 魏の「三体石経」の篆書体 を念頭においていました。

書道博物館をつくった中村不折の仕事の全体に、こだわりがあるからですが、

一般書で、手短かにふれようとしたのがいけなかったと反省しています。 (2018/4/20 追記)  

 

平野謙は戦後派の「純文学」に、政治性・社会性の強い小説に「アクチュアリティー」という語を用いました。

娯楽性の強い「大衆文学」に対して用いた。

(この「アクチュアリティー」の概念ととりくんでいた院生の人たちがいましたね)

 

これは戸坂潤の用語を転用したものです。

1930年代から、政治・社会の現実を書く小説に「アクチュアリティー」(時局性)という用語を用いていました。

これは、プルーストのような「内的リアリズム」が盛んになったことに対して、呼びわけたのです。

『日本イデオロギー論』(1935)のなかに出てきます。なお、この呼び分けは、芸術性を基準にしたものではありません。

『近代の超克―その戦前・戦中・戦後』(2015)に書いたと思います。

 

?このような概念の転用は、しばしば起こります。それに類する例をあげてみましょう。

) 1958年、中村幸彦「近世儒者の文学観」が、江戸後期の読み物類を「大衆文学」になぞらえました。

江戸後期は、士農工商の職分が、制度においても意識においても崩れていた。そこで、アナロジーした。

それはわかる。が、四民の職分制がなくなっていたわけではない。言い換えると、職業選択が自由になっていたわけではない。

「四民平等」が宣言されたのは、明治5(1872)年末の徴兵告諭。(戸籍簿の統一が先行していたが)

だから、精確には、比喩としても成り立たない。

 

『座談会 明治文学史』(1961)の面々の議論には、先の中村幸彦の議論が響いている。歴史的限界です。

これは『日本文学の論じ方―体系的研究法』でも確認しておきました。

このあいだ亡くなられた平岡敏夫氏がわたしの『日本の「文学」概念』を読み、手紙が来て、

「比喩とすればよかったのですね」と書いてあった。が、誤解が生じやすいと思う。

比喩にも有効なものと誤解をまき散らすものとがある。

 

新しい学問ジャンルをつくるときに、概念の借用は不可欠です。概念を全く新しくしたら、誰にも通じない。

19世紀後期の「熱力学」(エネルギー工学)の形成期には、市場用語も借りた。

これはエンゲルスが指摘していた。ジャック・アタリ『話し言葉と道具』(1975)が、それを引用し、批判しつつ、このことを力説している。

ストックとかフローなどもそう。けれども、説明概念に比喩を用いたら、比喩だと断っても、一人歩きしてフローしてしまう。

ジャン=ジャック・ルソーは、国民国家を考えたとき、人間の身体にたとえた。これが国家有機体論のもとになったらしい。

「らしい」というのは、イギリスの自然権の議論には出てこないから。グローティスもホッブズも、ジョン・ロックにも。

 

国家有機体論や社会有機体論は「なぜ、悪いか」という質問をされたことがある。

近現代の国家全体主義のイデオロギーを支えたのはこれ。念のため。

日本では、外山正一の講演録「人生の目的に関する我信界」(1896)が突出している。

これは、加藤弘之の「家族国家」論とも、穂積八束の「血統国家」論とも、はっきり区別すべきだ、

と、最近、思うようになった。

 

中国では、前漢の董仲舒のころから国家身体論。五行を五臓にあてはめるから、中国では起こりやすい。

ただし、天子や皇帝を頭には置かない。古代から脳みそは知られていたが、ほとんど空だと思われていた。

だから、東洋では、マインド(頭脳)とハート(心臓)を截然と分けなかった。(ギリシャ古典後期には、知性と感情をわけはじめる。)

『孟子』が心の四端の第一に「惻隠の情」をあげ、張『正蒙』に、「心」が「性」と「情」を統べる、と出てくる。

それを高く評価した朱熹は「性即理」。だが、陸象山、王陽明は「心即理」。ここが大きな分かれ目になった。

そして、このことが日本の前近代における知性と感情の関連を考える大きな手掛かりになる。

と、ここで止めて、もとに戻りましょう。

 

江戸時代に「日本文学」の概念も、「大衆」の概念もなかった。「純文学」も「大衆文学」も、歴史的に意味を変えてきた。

これらは、どれも超歴史的に用いることができる普遍的概念ではありません。

当時の当事者の立場を内在的にとらえるという意味で、内在的実証主義の立場に立つなら、これらを比喩に使わない方がよい。

「文芸」なら、文の芸の意味ですから、混乱は起こりにくいとは思います。が、「芸」を近代的な意味の「芸術」とされたら同じです。

 

『土佐日記』はフィクションだというのはよい。

が、だから「文学」だ、「芸術」だ、などという議論は、近代概念を尺度にした議論です。いまでも見かけますね。

とすると、ノンフィクションの『和泉式部日記』は、「芸術」ではないことになってしまう。それでいいのかな。

 

上代で「抒情詩」にこだわるのも、わたしは近代の「芸術」概念がはたらいていると思います。

用語は、ある意味、どうでもいい。あくまで概念、コンセプトの問題です。

 

歴史的概念は、普遍的な分析概念に用いることはできない。「ジェンダー」などとはちがう。

なお、清沢洌は「モダン・ガール」論で、すでに性の文化差について論じていました。これは1980年代後半から言ってきたことです。

むろん、「ジェンダー」も適用するには、歴史的・地域的特殊性を考慮すべきですし、男性性、女性性に二分しているのは限界がある。

「ジェンダー」の原義には、多く「中性」もあるのに。

トランス・ジェンダーが流行しているが、多くの詩人、歌人、作家は、心理的には両性具有的です。

そうでないと男女を内側から書き分けられない。

 

) 次の例。鶴見俊輔 『限界芸術論』(1967)が、美的経験を得る芸術を、今日の用語法で、次の3つに分類した。

専門家によってつくられ、権威をもつ「純粋芸術」(pure Art)

企業家と専門家によってつくられる、俗悪な「大衆芸術」(Popular art)

非専門家によってつくられ、非専門的享受者に享受される「限界芸術」(Marginal art)に分けている。

   

20世紀のマス・コミュニケーションが発達したゆえに  「純粋芸術」と「大衆芸術」は引き裂かれた。

   そのなかで、「限界芸術」を考えなおしてみましょう、というのが、鶴見さんの提案である。

言い換えると、一般の人々が生活のためになす行為や、生活用品などに美が見出せるものが、

「限界芸術」ということになろう。

5000年前のアルタミラの壁画、落書き、民謡、民画、絵馬、日用使いの陶磁器(下手)、盆栽、漫才、

花火、マンガなどがみなそうだという。

 

「純粋芸術」と「大衆芸術」が現代の用語法なのに対して、「限界芸術」は超歴史的な概念。

「生活のなかの芸術的要素」に着目した提案はよいとしても、これでは、いかにも粗っぽい。

 

?まず、美的経験の全般をいうなら、範囲はもっと広がる。

  鶴見さんは、限界芸術を考えた人びとのなかに、ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスをあげている。

  ラスキンは、アルプスの美と建築美、

モリスも自然環境、都市環境、住居内を含めて「生活の芸術化」「芸術の生活化」を唱えた。

自然美、建物などもふくめ、いわゆる観光も加えるべきではないか。

  

わたしは、永井荷風の随筆は、相当、モリスを意識していると想う。論文が書けそう。

  谷崎潤一郎は、『陰影礼賛』を書いている。蝋燭の明かりが醸し出す美への注目。  

  

  そもそも、カントにしても、ヘーゲルにしても自然美を問題にした。

カントは、神の目的と自然の美を結び付けた。個人の趣味の問題になると、恣意としてしか考えていない。

へーゲルは生物にこだわった。生命にこだわっていたからだ。

それはともかく、自然美や動物の生態などをふくめ、20世紀に発達したドキュメンタリー映画は、

まぎれもなく、大衆芸術の一種だが、「俗悪」とはいえまい。

マス・コミュニケーションとの関係では、報道写真にも、低俗とはいえない美がある。

スポーツの美は。ナチスのオリンピック映画もあれば、市川崑の東京オリンピック(1964)の映画もあった。

 

   どうにも、鶴見流「純粋芸術」対「大衆芸術」の対立図式がわたしには受け付けられない。

   それが思いつき的なのは、柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治についてそれぞれ論じたいことがあり、

それらをつなぐ線として、まず「周縁的な芸術」という観念が浮上し、それを20世紀の芸術状況に

置こうとしたからではないだろうか。

 

3人とも、20世紀の現実と対峙して仕事した人たちであり、手がかりにした思想も、その対峙の仕方も、

それぞれにちがう。

 

柳田国男の民謡論は、消えゆこうとしている民衆のうたのことばの芸に集中している。

それは広義の「芸術」概念だ。柳田国男は、表現と享受の現場を感覚でよく捉えている。

 

柳宗悦は、器械文明に対して、吹き上げる大地のいのちのうたを民芸に読もうとした。

ラスキンやモリスが職人の工房仕事を主張したのは、

製品を仕上げることを許さない資本制生産様式に対する、直接的でわかりやすい対抗措置だった。

彼らは同じく生命原理主義に立っていても、柳宗悦の思想には、集団制作の必然性がない。

彼が組織したのは、個々人の芸術家の寄り集まりでしかない。

鶴見は、その点を突こうとしているが、柳宗悦の思想をギルド主義として批判していまっている。

 

   宮沢賢治は、「限界芸術」論の線だけでは、とうてい論じきれない。

その表現の即興性は、飛躍に富み、絶えず位相を転換する。

そういう表現を自分に許す。というより試している。

詩集を編むために、作品に仕上げる改稿もあれば、着想を正反対に転換する改稿もある。

 

?本当のところ、「純粋芸術」と「大衆芸術」は、横並びの関係にならない。

「大衆」の歴史的規定性を無視している。Popular art”を「民衆芸術」と翻訳するなら、

民謡、民画、漫才などは、近代に「純粋芸術」が生まれる以前からあり、

むしろ、「大衆芸術」と対立する。花田清輝は、その点、よく了解していたと思う。

  

?そして、このように並べる限り、「純粋芸術」は「大衆芸術」に対して、

質の高いと見なされているものを呼び分けていることになる。

   民衆ないし大衆の歓ぶものの方が優れている、という価値観を無視して、

それを企業との結託のように考えてすませているところがある。

 

?ギルドも顧客の注文に応じる企業だ。ただし、不特定多数の顧客ではない。

   「純粋芸術」と「大衆芸術」ならぬ「民衆芸術」とのあいだにも境界はある。  

「限界芸術」は、その意味でも、「純粋芸術」と「大衆芸術」「境界線をなす」という位置づけは、

成り立たないはずだと思う。

 

?そこで、鶴見さんの問題意識を活かすために、

表現行為の目的として美(他者に感動を与えること)を狙うものを「芸術的実践」と呼ぶことにする。

a). それでも、表現の立場と鑑賞の立場を区別すべきだろう。

表現者(行為者・制作者)が意図しなくても、鑑賞者が勝手に美を感じるということがある。

   また、表現者が意図する美も、鑑賞者の美意識も、歴史的に変化してきたことを考慮する。

 

b). 美を目的にしない表現(技芸一般)が美を伴うものを「限界芸術」と呼ぶとしても、それも目的によって分かれる。

生活用具などをつくる「技術的実践」(たとえば日用使いの陶磁器)と宗教儀礼など「呪術的実践」(絵馬)とは

制作の目的がちがう

 

そして、社会的意味が変化するものがある。

花火は、ヨーロッパでも、東アジアでも、祝祭や儀礼などに発して

日本の江戸時代に民衆の娯楽の一つになったが、そのときには、スポンサーの宣伝が伴っていた。

   

   技術的実践の場合、制作者にとって、本来の機能のための部分と装飾的な美とに分かれることが多い。

装飾的な部分は、「純粋芸術」にあたってしまう。また、それとは別に機能美もある。

 

宗教儀礼など呪術的実践では、行為も制作も、すべてが神への祈りだから、

実践者にとって美的要素は、それとして分かれない。

しかし、信仰をともにしない、鑑賞者にとっては、美的要素を切り分けることもできる。

 

言い換えると、真・善・美は未分化。前近代の「芸術」(技芸一般)は、基本的にそういってよい。

   そもそも、理性にかかわる「真」・「善」と、感情にかかわる「美」の切分けを行ったのは、

イマニュエル・カントの『判断力批判』。。

ギリシャ古典は「善」「美」を一つにしたり、中国古典も「真」「善」「美」を一つにして考えたり、人によってちがう。

哲学だけでなく、産業社会化のなかで、職人が労働者と芸術家に分岐したということは、前の議論でふれた。

  

            ) 日本の古代歌謡の考察に、この鶴見俊輔の「限界芸術」論を転用したのが、土橋寛。

        歌謡を、生活のなかに生じる「芸術」の意味で用いた。

岩波の『日本古典文学大系3 古代歌謡集』(1957)の巻頭の「解説」のなかで、

鶴見さんの概念を借りるとはっきり書いている。これを便利に分析概念に用いた。

 

そして、歌謡一般を、歌い手により、民衆による「民謡」と専門家による「芸謡」に分け、

        「芸謡」は、「創作歌のように作者の自己表現を目的にするものにならない」と述べている。(p.9)

         とすれば、「創作歌」は、「純粋芸術」にあたると考えていることになるだろう。 

だが、「創作歌」でも教訓を垂れる。

山上憶良には、律令官僚の立場から、山に隠れて仙人になるな、と呼びかけるうたがある。

真・善・美は未分化。

 

                 土橋寛は、ここで「宮廷歌謡」に言及している。 物語のなかに組み込まれているのが多いと述べている。

        それゆえ、古代歌謡の研究は、「独立して記された歌謡を足場に、物語に結びつけられる歌謡の実体を究明することから

出発しなくてはならない」と述べている。(これが、03/17の質問者のいう転用論の意味でした。質問者はちがう人ですが。)

 

土橋寛は、物語に結び付けられるときに改作されることも考えているし、物語にあわせて作られる歌謡もあると考えている。

後者は「転用」とはいえない。特殊な「創作歌」ということになる。歌謡から地名起源譚など、神話がつくられることもあろう。

だが、それに「類歌」があれば、替え歌にあたる。

むろん、土橋は「類歌」にも言及しているが、替え歌は、すでに詠い手の個の分立であり、その意味で一種の自己表現といえる。

 

集団の「民謡」と個人の「芸謡」と自己表現の「創作歌」の関係は入り組んでいるが、

3つの本質規定はできる、と土橋は、いっている。自己表現の「創作歌」の本質が抒情歌といいたいらしい。

 

わたしは、そんなに簡単に本質規定できないと考えている。

物語に組み込まれたら、国誉めの儀礼歌も、個人の懐郷の抒情歌に意味を変える。

『古事記』に、小碓命が最期にうたったとされているうたは、

『日本書紀』には景行天皇が日向で詠んだうたとして載せられている。

後者は、国誉めの儀礼歌を懐郷のうたとして組み込んだもの。

この場合は、『日本書紀』のうたの方が歌謡のもとのかたちに近いとはいえるでしょう。

それを『古事記』では、小碓の絶唱に仕立てている。

 

これは神話の編集によるもので、歌謡自体が叙事詩か抒情詩か、と考えることにたいした意味はないことになる。

そもそも、集団でも個人でも叙事詩も抒情詩も作りうる。

土橋寛は、歌謡の特性として「即境性」をいう。その場の環境に即してうたうという意味だ。

自己表現は、環境から自立しているというのだろう。が、実景・実感をうたうのは、個人詠にもいくらでもある。

個人詠は、あとで推敲できるが、歌謡も、うたい継がれているうちに、より共感を呼ぶように改作されることもある。

 

実景・実感をうたうのが漢詩の基本ルールだ。夢見も本当に見た夢なら記してもよいとされる。

ウソはいけないのが根本。日本でも、相手を「僻事」と非難する際のおおもとは事実性による。

そして、マコト()が倫理規範になる。朝廷に対して二心のないことが「清き明かき心」と称揚される。

 

もともとは「清明節」から来ているので、中国の詩には、この季節の景物をうたう詩がたくさんある。

日本のうたなら、佐保姫が出てくるのは、それに類する。

 

だが、「清き明かき心」を「すがすがしい」に近い意味では用いない。王権に背く心がないという意味しかない。

上代では出てこない。これは確認した。平安時代にもないと想う。宋学以降の儒学系にもないはず。

とすれば、後世の付会となる。実は、ふたつの意味をつないだのは、賀茂真淵でした。(2018/04/07)

 

歌謡を編集する際の「仮託」が頻繁になされていることが日本的特殊性といえばいえる。

『懐風藻』にも、女に仮託して詩をつくつている詩がある。

『土佐日記』の仮託や虚構性の問題にも響く。「つくり物語」の価値の問題になる。

『栄華物語』に、道長を称揚するのに光源氏が比喩に用いられている。

歴史叙述に架空の人物を比喩に用いることなど、中国では絶対ありえない。

「伝奇」「志怪」は別ジャンル。そういう規範外れが日本では起こる。それが面白いところ。

 

天皇の「代作」という行為も、朝廷儀礼という場所的・集団的規定性があって初めて可能なもの。

土橋寛は、歌物語まで射程に入れて考えているが、歌物語も、「歌語りの場」が生み出すもので、

継続的な集団的営為になる。そもそも、歌物語は作者を特定すべきものと考えられていないと想う。

これは『鴨長明―自由のこころ』に書いたはず。

 

要するに、土橋寛は自ら述べているように、歌謡の「実体」に接近しようとしている。

『万葉集』の歌謡についても同じように考えている。『万葉開眼』(1978)「万葉序説」を参照。

 

         わたしは、『万葉集』巻一のイワノヒメのうたなど、うたの配列の仕方の見事さに感心すると研究会では話した。

         「あなたを一晩待って、髪に霜が降りた」といううたを、「あなたを一生待ってすっかり白髪になった」といううたが並んでいる。

その替え歌ぶりに感心した編者が、2つともイワノヒメのうたとして、隣に載せた。

ないしは、二つの歌謡を並べることで対比の面白さを示した。漢詩の「比」の応用ともいえよう。

『万葉集』でも「編集の思想」を問題にしたい。

替え歌なら、後者は、土橋のいう「創作歌」に近いと思う。つまり、歌謡と創作歌は、本質的に区別できない。

 

玉櫛笥(たまくしげ)、みむろの山の、さな葛(かづら)、さ寝ずはつひに、有りかつましじ

この藤原鎌足のうたに仮託された歌謡の最後「有勝麻之自」は、他のうたでは漢字の表記がちがう。

そういうところまで、問題にしうるのではないか (これは研究会の懇親会で話したこと)

 

         歌謡を物語に組み込むのも、歌謡から物語を紡ぐのも、ふたつのうたを隣にのせるのも、漢字の書き分けも、

「編集の思想」による。

         編集の思想を併せ考えることによってこそ、いわば歌謡の「実体」に接近することができるのではないか。 

 

         わたしは、神話から歌謡を切り出して考えようとした土橋寛の仕事は、画期的だと思う。

それまで和辻哲郎らは、歌謡とストーリーとを一体のものとして読んでいた。

         だからこそ、その先学の仕事を検討する。「限界芸術」論を借りた「うたの三分野」の方法を批判し、

概念を組み替えれば、研究を、より先へ進められると思う。  

土橋寛の「転用論」に対する批判の「方法」を変えるという意味です。念のため。 (以上)

 

50年前の学説であろうと、100年前のものであろうと、受け継がれ、組み換えられながら、

今日のわれわれの頭に刷り込まれ、思考を規定しつづけているものがある。

それをチェックしているのです。念のため。(2018/04/07)

 

(2018/03/28)

(2018/03/12) 記事に追記しました。

 

(2018/03/17)

   鈴木貞美「『民謡』の収集について―概念史研究の立場から」について、三月四日の研究会の参加者から質問が寄せられました。

 

   「もともと民間歌謡の収集は、『詩経』『楚辞』(漢語訳のみ残存)に発し、「風」(国風)、すなわち地方色をもりこむことを習慣とした。

宮廷詩人が作ったものにも、民間のその調子を活かすものがあった。それを受け取った日本では『古事記』『日本書紀』に、

民間歌謡の収載が見られ、しかも、それは日本の地方色としてヤマト言葉をいわゆる「万葉仮名」方式で記述した」

 

とあるが、それでは、宮廷歌謡(宮廷でうたわれていたストーリーつきの歌謡)を無視していることにならないか、

というものです。土橋寛の歌謡の転用論と同じではないかともありました。

 

宮廷歌謡は、歌謡の伝承の場の問題であり、その規定性を考慮すべきです。

近代における「民謡」概念の発明論とは議論の水準(位相)がちがいます。

土橋寛の転用論は、『記』『紀』『風土記』『万葉集』それぞれの編集の思想のちかいを考える方向に向かうべきです。

今日の議論は、「叙事詩」「抒情詩」問題など、編集の思想を無視して、歌謡のテクストをいわば実体化しているため、

隘路に入り込んでいるように思えます。それを映した質問でしょう。

 

常々、考えてきたことであり、一体何が問われてきたのか、

津田左右吉、和辻哲郎、土居光知、高木市之助、折口信夫、土橋寛、そして石母田正あたりまで、

古代神話とそこに組み込まれた歌謡、および『万葉集』における歌謡の転用について、

問題の立て方、問題意識のちがいを大雑把にまとめてあります。

長くなるので、pdfにリンクを張ります。質問への回答。「叙事詩」「抒情詩」問題のことなど。〔 

  

(2018/03/12)   (青字は2018/03/15,16, 23. 緑字は03/25, 27追記)

 201834日、東京で上代文学を研究する大学院生の会で、1時間半ほど、

日本の「文学」概念と『万葉集』の自然観について話しました

   面白かったという感想も寄せられているようですが、受けた質問から、大きく2点、根本的な誤解がまだ存続していること、

日本の「文学」概念の近代的再編制について、その内実がよく伝わっていないことに、気づかされました。

 

. 一つは古代「歌謡」や「民謡」の概念についてです。

それらは、二つとも、近代に「発明」されたかのような理解が一部に残っているようです。

「民謡」概念も、それを担った「民衆」の概念も、それぞれ相当するものが、古代から中国にも日本にもありました。

そもそも漢語の「歌」は、民衆の歌謡です。『詩経』や『楚辞』には、民間の「歌謡」が多く収録されています。

 

それは『万葉集』の編者も、紀貫之らも、本居宣長(「石上私淑言」)も、

日本で初めて「日本文学史」を編んだ三上参次・高津鍬三郎らも、みな、よく承知していました。

それが最もよくわかるのは、『閑吟集』〔真名序〕かもしれません。

ただし、『古今和歌集』序文とは、自然観の根本が転換しています。

『古今和歌集』〔序文〕が『詩経』〔大序〕から受けついだ、生きとし生けるもの、みなうたをうたうという理念が、

雨だれなどの例をあげ、万物がみな、うたをうたうに転換しています。ここが面白いところです。

これは未発表。現在、執筆中の『日本人の自然観』に書きます。

 

また、「百官」に対する「百姓」、「四民」のうちの農・工・商。ヤマトコトバの「おほみたから」など、

みな「民衆」(people, 被支配階層)の意味です。

「四民」は『続日本紀』に出てきます。私度僧が「四民」を惑わしている、とかなりきついことばで書かれています。

このように、かつて「民衆」にあたることばと概念は、さまざまにありましたが、

日本近代に、近代ナショナリズム(国民国家主義)によって、「国民」のなかの「平民」に組み替えられました。

 

〇近代ナショナリズムは、多くの伝統観念を新たに生みました。それにちがいはありません。

ですが、そもそも、「伝統」や「tradition」の語は、どちらも古い家の血筋や旧家の因習を意味していたものです。

それに近代ナショナリズムによって、「国民の文化伝統」という意味が加わったのです。

古い概念(ことばの意味)がそっくり入れ替わるようなことは、まず起こりません。

制度も同じ。次第に組み替えられてゆくのです。

 

ホブズボームらの 「伝統の発明」論は、精確には、習俗に関しては、「伝統の再組織化」

精神文化に関しては、「伝統の再解釈」と理論化すべきことが多いのです。

      スコットランドの民族衣装のキルトは、19世紀半ばのロンドンの仕立て屋さんの発明ですが、

あのタータン・チェック風の布は、以前からスコットランドの伝統でした。

      アフリカの原住民の踊りには、大英帝国の外交官を迎えるために、より派手な演出が加えられました。

これもホブズボームらは「伝統の発明」と呼んでいます。

 

       なお、「民族」の観念が、近代の産物のように考える見解が一部にあるようですが、

中国では「蛮夷」などの考えは古くからあります。

ヤマト王権は、蝦夷を完全に「異民族」扱いしていました。蝦夷の「部族」を次つぎに服属させてゆきますが。

「南蛮」渡来という語も、ありましたね。

 

概念は組み換えられる。それには歴史がある。ことばの意味に変遷があることは、みな、知っている。

が、具体的になるとおぼつかない。

       国語学者は、用例の細かな変化にこだわりがちです。

詳しくなればなるほど、概念の組み換えに疎くなる傾向を免れない。国語学に限りませんが。

 

日本の近代天皇制は、古代からかたちを変えながら存続していた天皇制を、

ヨーロッパの「立憲君主制」にならって、新たに国法に規定したものです。

国法を「憲法」と呼んだのは、かつて「一七条憲法」があったからです。これは古代の用法を呼び返したのです。

 

それに先立ち、「紀元節」なるものが創設されました。江戸時代まで、まるでなかったもので、これはまったくの「発明」です。

神武神話によったので、その日が三転くらいしたのも当然でした。

そして、古代からの「天皇制」の「伝統」の理論化をめぐって、久米邦武の筆禍事件があり、

また南北朝正閏論争など、明治末まで論議が繰り返されました。そののち、論議することもむつかしくなった。

このあたりのことは、一般書では『日本の文化ナショナリズム』(平凡社新書)まとめてあります。

 

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